東京外国語大学教授 町田宗風
ききて 武内陶子アナウンサー
広く他人の宗教にも心を開くことの大切さを留学生に説く町田さん、五十二歳。アメリカのプリンストン大学、国立シンガポール大学を経て、ちょうど二年前、東京外国語大学教授に迎えられました。町田さんは、京都の生まれ、十四歳中学生の時、突然家出して、禅宗の寺・大徳寺に小僧として住み込みました。その後、青春時代のすべてを禅の修行に打ち込むことになります。しかし、時には激しく落ち込み、二十一歳の頃、数ヶ月寺を出て放浪したこともあります。そうした苦労や挫折を乗り越え、三十歳過ぎには雲水の筆頭格にまで昇ります。
―― 町田さんは、十四歳で家出して、お寺に入られて、その後いろんなことがあって、今は東京外国語大学の教授をしていらっしゃるんですけれども、今はどういうことを大学で教えていらっしゃるんですか。
町田: 主に留学生対象に、英語で日本の文化紹介の講座をいくつか教えています。
―― 学生さんはたくさんいらっしゃるんですか。
町田: ええ。それぞれのクラスに二十人前後ですが、ただ、週に一度東京大学の方にも出向いて、その時に自分の専門の宗教学を日本語で語っていますが、私にとっては日本語で講義するのは生まれて初めての体験なんですよ。
―― 実はそうなんですね。
町田: ええ。
―― いろいろ経験していらっしゃって。さあ、十四歳で家出して、「いろいろ」というところをちょっと伺っていきたいんですけども。十四歳というと、中学三年?
町田: いや、二年生の秋でしたよ。
―― どうして家出なさったんですか。
町田: いや、それは自分にも謎なんですけどね(笑い)。
―― 謎なんですか?
町田: 親はもう猛反対しましたからね。それを振り切って家を飛び出してお坊さんになっちゃったんですけどね。小学校の頃から、キリスト教の教会に出入りをして聖書の勉強していたんですよ。たまたま宗教には関心があったように思います、小さい頃からね。そういう状況になった時に、中学校のクラスメートにお寺の小僧さんがいまして、時々日曜日なんかに遊びに行くと、非常に禅寺の生活がシンプルライフで、身体を使って、私に美しく見えたんですよ。「ああ、これじゃないかなあ」というふうな印象を受けた思いはありますけどね。中学校二年生の秋、クリスマスの時に、クリスマス・キャロルで聖歌隊に入って、京都の街をグルグル讃美歌を歌って、キャンドルを点けて回った覚えがあるんですよ。その同じ十二月の暮れ、「除夜の鐘を撞きに行く」と親に言って、風呂敷包み一つで出たんですよ(笑い)。それから二十年やったわけです。
―― 家には帰らず?
町田: いや、数年してから、時々家に出入りするようになりましたけど、初めのうちは帰らなかったですね。
―― そうですか。十二月の寒い時に、お寺に。どういうふうに行かれたんですか。だって、中学校二年生の子をお寺に入れてくれないんじゃないですか。
町田: いや、それは前もってお寺の方には、「私、来たいんで、お願いします」と言ってありました。親には内緒だったんです。
―― 計画的犯行じゃないけど─。
町田: 「除夜の鐘を撞きに行く」と言ったものですから、元旦には帰って来る、と思っておったでしょうね。帰らなかったんです(笑い)。
―― ご両親は心配なさったでしょうね。
町田: それは心配という・・・まあ行ったお寺がどこかということは分かっておりましたから、そういう心配はなかったと思いますけれども、帰って来て欲しい、という思いは随分強かったと思いますよ。
―― そのままお寺にずーっと二十年間居着いてしまわれて、そこでいらっしゃったけども、小僧さんの時代というのはどういう生活だったんですか。
町田: そうですね。禅の修行も二つの段階があって、一つは小僧の段階、もう一つは雲水の段階というのがありまして、私は小僧を七年位やったことになるんですけれども。小僧さんというのは、お寺から学校に通って、普通に教育を受けるわけです。しかし、朝早く起きて、本堂でお経をあげて、お掃除をする。大きな境内の庭を竹箒で掃いたり、長い廊下を雑巾掛けしたり、そういうことをしてから、学校に行くわけですよ。三時まで学校があると、走って帰って、今度はお寺の畑を耕したり、薪を割ったり、お風呂を沸かしたり、そういう生活なんですよ。ですから、小僧というのは、半分普通の子どものように学校に行っているんだけど、生活の基盤はお寺にあるわけですから、ある意味では辛かったですよ、私も。自分で思い立ってお寺に入ったけれども、クラスメートを見ると、みんな休みの日には映画に行ったり、デートに行ったり、勉強も思う存分しているわけですよ。こちらは時間がない。全然、そういう行動の自由もない。そういう生活でしたからね。雲水は確かにもっと厳しい修行なんですけれども。
―― 雲水の修行というのはどういうふうになるんですか、こんどは。
町田: そうですね。朝の三時半に起きて、まず一時間位勤行(ごんぎょう)─お勤めをするわけですよ。そして師匠に参禅(さんぜん)と言って、自分の坐禅の内容を報告に行く。それから粥座(しゅくざ)と言ってお粥の朝食を頂いて、午前中は托鉢に出ていくわけですよ。草鞋を履いて、網代笠を被って、京都の街に托鉢に出て行く。で、帰って来てから早い昼食を頂いて、多少の休息は致しますが、午後は作務(さむ)と言いまして、肉体労働をするわけですよ。菜園で働いたり、或いは、大工仕事したり、あらゆることを自分たちでしますから、作務がお昼過ぎから夕刻まで続いて、またごく簡単な薬石(やくせき)と言うんですけれども、夕食を頂いて、その後、坐禅が始まるわけです。この坐禅が九時か九時半頃までは禅堂の中でみんなで綺麗に並んで坐禅をするんですが、九時半頃から夜坐(やざ)と申しまして、屋外で坐禅を独り真っ暗闇の中で続けるわけですよ。
―― へえー。夜?
町田: ええ。寒くても、暑くても年中(笑い)。月夜の日なんかの坐禅は非常に気持がいいですが、夏だと蝦がブンブン飛んでくるし、冬だと凍るように寒い。そういうところで坐禅をするのが夜坐なんですけどね。それは私は大好きでした、実は。禅堂で坐っておると、警策(けいさく)と言って、叩く棒を持って来て、ビシビシ叩きますからね。臨済宗は特にそういうものをよく使いますので、むしろ集中三昧(ざんまい)の妨げになるようなことがありましたけど、夜坐というのは暗闇の中で独りで坐るものですから、それは私にとっては非常にいい体験でした。
―― そういうことを続けられて、禅寺にいらっしゃった二十年というのは、禅から学んだことというのは、町田さん、どういうことがありますか。
町田: そうですね。なんか一言でいうのは難しいんですけれども、「何事も体当たりしってやっていけば、道が開ける」ということだけです(笑い)。どんなことでも体当たりしていけば、いつか道が開ける。そういう確信は得ましたね。
―― よく「無になる」というふうに、私たち一般人は思っているんですけど、「無になる」ということとはまた違うんですか。
町田: いや、「無になる」というふうに表現していいと思うんですけれどもね。本当の自分を見付ける、そういう修行ですよ。だけど、そんなに簡単に本当の自分は見付からないですよ。で、またお寺の世界でも人間関係がありますから、それは一般世間と変わらない面があります。ある意味では一般世間よりも俗な面もありますからね。ただ托鉢したり、坐禅したり、作務をしたりしていたら、これは極楽ですよ。坐禅そのものは非常に気持がいいです。自分と天地が一つとなった、というか、そういう心境になることは確かにあるんですよ。
―― よく禅の世界では、「悟りの境地に達する」。仏教の世界ではそう言いますが、「悟り」というのには、町田さんは達したんですか。
町田: いや、達していません。全然達していません(笑い)。
―― 「悟り」というのは、どういう意味合いがあるんでしょうか。
町田: 「自分が消えていく世界」というか、「ものがあるがままの世界」が見えてくる。そこに木が生えている。石がある。此処に人がいる。それがそのまま仏の世界というか、悟りの世界。それを自覚するだけですよ。別になんか特別なことがあるわけじゃないと思いますね。
―― 自分が無くなる?
町田: そう。私たちはいろんな飾り物を付けているわけですよ。そういうものを全部取っ払って、色眼鏡も外して、物をそのまま見ていく。そこにいのちを感得する、というか、だからそこには自分と他人とか、人間と動物、人間と植物とか、そういう差別も全部無くなってしまう世界があるんですよ。例えば、ここにいる自分と夜空に輝いているお星さまとの間に距離が無くなってしまうような、そういう瞬間があります。
―― 「悟りには達していません」とおっしゃいましたけれども、そういう何か境目が無くなるような体験は、町田さんはおありなんですか。
町田: もう坐禅を一生懸命すれば誰だってそれくらいの体験はありますよ。ただ、そういう体験を持っても、現実に戻ってきた場合、それを如何に活かしていくか、ということが一番難しい。僧侶に与えられた課題だと思いますよ。