東京外国語大学教授 町田宗風
ききて 草柳隆三アナウンサー
―― 「法然を語る」の八回目です。前回までは、法然が伝統的な仏教の思想を次々と突き崩していって、新しい教えを説いていった、その道筋をみてまいりました。今回はさらに当時の既成の仏教者と言いますか、当時の仏教の教えを拠り所にしていた仏教者たちに、法然の専修念仏(せんじゅねんぶつ)という教えがどのような衝撃を与えたのか。そしてどういう波紋が広がっていったのか、ということについてみていくことに致します。お話はいつものように広島大学大学院教授の町田宗鳳さんです。どうぞよろしくお願い致します。
町田: よろしくお願い致します。
―― 今日の本題に入る前に、前回のおさらいをちょっとしておきたいんですけれども、「常識を突き崩す」というタイトルのお話を伺ったんですが、どういう常識を突き崩していったんでしょうか。
町田: 当時の仏教の常識というのは、「善因善果(ぜんいんぜんか)、悪因悪果(あくいんあっか)」ですね。善いことをすれば善い結果があり、悪いことをすれば悪い結果がある、と。それが因果応報説(いんがおうほうせつ)として人々の心を占めていくわけですが、法然さんというのは前衛的な宗教家として、その心の呪縛から人々を解放していった、と。そういう働きをなした人ですね。じゃ、どうすればよいのか、ということですが、因果応報のその輪廻のサイクルから逃れるにはどうしたら良いか。その方法論もお示しになって、ただひたすら「ナムアミダブツ」と念仏を称えればよいという素朴な信仰を通じて、人々にもう過去のことはよい、と。今どういう心持ちで生きているか。今現在の自分のあり方を一切念仏の世界に投げ込んでいきなさい、と。そういう教えを説いた人なんですよ。で、それはいろんな方にお会いになって、非常に分かり易い平明な言葉でご自分の考えをご説明しておられたと思うんだけれども、後になって『選択集(せんちゃくしゅう)』という書物を著(あらわ)された、と。これが大きな問題になったわけですね。巷で人々に語っているうちは、はっきりとした証拠にならないわけですが、それが文章化されて多くの人の目に触れるようになった時、それが危険思想である、と。当時の仏教界においては、寺院のあり方の根幹を揺るがすような大変危険な思想であるということで、一挙に法然上人のご本人と仲間は非常に難しい状況に置かれていくわけです。
―― それでその当時の、例えば延暦寺であるとか興福寺という大変大きな勢力、そこからいろいろな、いわばお仕置きをされることになるわけですね。その辺が今日この後詳しくして頂くところなんですが、今日のテーマのポイントは何になりますか。
町田: 今日のテーマは非常に重要なことでして、信仰と道徳の問題です。これは仏教に限らず、ましてや法然さんの専修念仏に限らず、世界の宗教に普遍的な問題です。信仰と道徳。信仰は道徳を乗り越えるのかどうか。自分が悟りを開いた、あるいは神の救いに預かった、そういうものは道徳の制約を受けないですむのかどうか。これはずっと長い宗教の歴史の中で繰り返し問われてきた問題ですが、今日は法然さんの経験された歴史的な事実を踏まえて、より普遍的な信仰と道徳の問題を考えてみたいと思っています。
―― さて、法然が称えた念仏ということなんですが、「念仏をしさいすれば救われる」というのが非常に受け入れやすい、と言いますか、しかも「難しいことはいらないんだ」という教えだったわけでしょう。
町田: そうですね。非常に過激な教えだったんですね。もう戒律は要らない、と。別に善根功徳(ぜんこんくどく)も積まなくてもよい。厳しい行もしなくてよい、と。あなたがそのままあるがまま救われていくんですよ、と。たとえどれだけ罪があっても、どのような職業に就いていても、みんながみんな平等に救われていくんですよ、と。これは当時の因果応報説なんかを基盤にした仏教の思想にとって、とんでもない過激な思想だったわけです。ところが思想があまりにも斬新で過激ですと、車がちょうど急カーブを曲がりきれないように、その教えを誤解する人が続出するわけですね。例えば、造悪無礙(ぞうあくむげ)―どれだけ悪をなしてもそれがさわりなく、お念仏さえしていれば救われる、と。そういう教えを積極的に悪いことをしても、人を殺めても、盗みをしても、全然問題なく極楽往生できるんだとか、あるいは悪人正機説(あくにんしょうきせつ)―悪人から救われていくんだ、と。そうしたら自分は極悪人になった方がよいのではないか、と。非常に浅いレベルで、悪ということが捉えられて、大変法然の教えを曲解して、反社会的、反道徳的な行為に走る者がおそらく多数出たんでしょう。具体的には、寺社が所有している荘園(しょうえん)を横領したり、いろいろな社会的ルールを無視するような人たちがたくさん、それも一気に出たと思われるんですよ。で、宗教の教えというのは、どの時代においても常にそういう危険性があって、必ずしもご本人がおっしゃった意図がそのまま伝わらずに、曲解されるというか勝手に解釈されることがあるんですよね。
―― ただ、法然自身もその辺のところは勿論わかっていたんでしょうね。
町田: 当然聡明な方ですからお気付きになっていたと思うんですが、まず彼がすべきことは、人々を心の呪縛から解放することですから、その解放するためにはどうしても斬新で過激な、一種の革命的な思想を語らざるを得なかったわけですが、その副作用として、そのような反社会的な行為が出ることを十分に懸念されていた。だから『選択集』の中に、これは軽々にして人に見せてはいけない、と。その辺にぽっと置いておいて良い本ではない、と。よほど私の教えをしっかりと理解した者だけの中で読み回してほしい、ということをおっしゃっているんですよね。それが衆目の目に曝されると、どのように皮相(ひそう)なレベルで誤解されるかわからない、というご心配をしておられたわけですから、十分にその危険性は意識しておられたわけですね。
―― そういうことを懸念して、実はこういう言い方をしているので、それをちょっと見てみたいと思うんですが、
罪の軽重(きょうじゅう)にはよらず。念仏すれば往生する現証(げんしょう)なり(中略)さればとて念仏行者(ぎょうじゃ)、罪を犯せとにはあらず、所詮(しょせん)、罪は五逆(ごぎゃく)も生まるると信じて小罪(しょうざい)をも恐れよ、念仏は一念(いちねん)に生まると信じて、多念(たねん)をはげめ。
(『高砂浦(たかさごうら)の老漁人(ろうすなごり)の現証をききて仰(おお)せられける御詞(おことば)』)
町田: まずこれを問い掛けた人が面白いですね。「高砂浦(たかさごうら)の老漁人(ろうすなごり)の現証(げんしょう)をききて仰(おお)せられける御詞(おことば)」と書いてありますからね。漁師さんが生業(なりわい)として毎日殺生せざるを得ない。仏教の「殺生戒」を職業的に破らざるを得ない立場にある人が、法然さんに非常に素直に聞いておられるわけですよ。私のような者が毎日毎日たくさんの魚を殺してしまっている。そういう人間でも、法然さまがおっしゃるようにお念仏すれば往生できるのか、と。そういう問い掛けをされた時に、今の質問がありましてね、「いや、人間の罪、浅い深いには関係なく、念仏すれば必ず救われますよ。あなたがお魚を穫って、それを生業にしておろうが、それは大丈夫です」と、ここで言い切っているわけです。だからそういうことをいうからと言って、「私は決して念仏行者にどんどん罪を犯しなさい、ということを言っているわけではございません」と。「罪は五逆(ごぎゃく)も生まるると信じて」というのは、仏教に「十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)」という考え方があるんですが、これは人間として本質的にもっている罪の深さ、特に五逆の方は釈尊を中傷誹謗するとか、あるいは親が子を殺すとか、子が親を殺すとか、人間としておおよそ犯してはいけない、そういう罪のことなんですが、そういう人でも救われますよ、と。念仏はそれほどの力があるものなんですが、しかし「小罪(しょうざい)をも恐れよ」ですから、念仏にはそれほどの力があるんだけども、しかし人間として小さな罪も恐れなければいけない、と。念仏はたった一回の念仏で極楽往生はできるんだけども、それを確信したうえで「多念(たねん)をはげめ」と。もう不断に朝から晩までナムアミダブツと称えて、間違った想念を自分の中に取り込まないように、ということをちゃんとバランスよく問うておられるわけですよ。
―― こうした法然のメッセージというのは信者に届きましたか。
町田: ええ。それは届いたから、それだけ多くの方が彼に従ったわけですが、先ほど申しましたように、彼のこういう思想的な寛容さが裏目に出て、大変間違った振る舞いをなす人間が次から次へと出てきたんでしょう。小説でも作家が書いた作品なんだけど、一度書かれた作品が出版されて、不特定多数の読者に読まれた場合、その解釈はまちまちでしょう。千差万別ですよ。書いたご本人以上に深い読み方をしているかも知れないし、あるいは全然違った方向で捉えているかも知れない。文学作品でもこういうことがあるわけですから、ましてや宗教思想となれば、聞き手はどのように解釈するかわからない怖さがありますね。
―― そうすると、当然中には法然がこれほど言っているにも関わらず、言ってみればカーブを曲がりきれない、とさっきおっしゃいましたけれども、暴走してしまう者も当然出てくる。
町田: そうですね。ですから元久(げんきゅう)元年(1204年)ですが、比叡山のお坊さんたちが自分たちのトップである座主に非常に危惧の念を抱いて訴えかけているわけですよ。あまりにも法然の信者が増えて無礼なことをしている、と。神仏に手を合わさないとか、伝統的な礼儀作法を守らない。あるいは南都北嶺の伝統ある宗派を否定するようなことを言っている。あるいは釈尊の時から伝わっている大変大切な経典をまったく無視をしているとか、さらには当時の仏教というのはやはり鎮護国家の仏教ですから、国家のための宗教ですから、天皇を護る、国を護る、そういう重大な使命を帯びている仏教界なのに、法然というのは専修念仏というわけのわからない危険な教えを人々に広めて、我々国家的な仏教を否定するような言説を広めている、と。そういうことを比叡山のお坊さんたちが纏まって座主に訴えかけるわけですね。座主と言えば、今で言えばバチカンのローマ法王以上の力をお持ちの方ですからね、政治も動かすことができたわけですよ。ですから座主が動けば天皇も動かざるを得ない。そういう社会的な背景の中で、そういう訴えがなされた、と。で、法然さんはそれに対して大変危機感を抱かれたと思うんですよ。まだ生まれたばかりのひよこのような教団ですからね。専修念仏の集団、まだ浄土宗という名前も付いていなかったかも知れないし、ひよこのような小さな教えを大きな大きな何百年という歴史を持つ教団の力によって踏み潰されてしまうかも知れないという危惧を抱かれて、比叡山でそういう動きがあったその年に、忽ちにして弟子に対してお触れを出されるわけですよ。それは、「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」と言って、七つの項目にわたって弟子を戒(いまし)める。そういうジェスチャをお見せになるわけですよ。
―― そうすると、凄く強大な権威から厳重に言われて、そして少し方向転換をせざるを得ないということになったんですか。
町田: そうですね。ある程度社会的に柔軟に妥協しないと立ちどころに叩き潰される可能性は大でしたから、相当立場を譲ったようなお言葉をお遣いになっていますね、それをちょっと見てみましょう。
―― 例えばどういう言葉なんですか。
町田: 本来は、「戒律は要らない」というようなことをおっしゃっていたにも関わらず、「戒は仏法の大地なり」、また仲間内にいろいろ不善をなす人間がいるもんですから、そういう人間はただ「弥陀(みだ)の浄業(じょうごう)を失うのみにあらず、また、釈迦の違法を汚穢(おあい)す」とおっしゃっていますね。戒律は仏法の根本である。「大地」と言っているわけですね。たとい念仏をしても不善をなすような者は、阿弥陀様のお徳を損ねている、と。釈尊の残された教えを汚(けが)しているんだ、という言葉をこの中に記されていますけれども、ちょっと考えてみたら矛盾するところがあるんですね。
―― それまで法然という人は、戒ということについては、外向きには―信者たちに向かってはそれほど重大なこと重要なことというふうには言っていなかったわけでしょう。
町田: そうですね。「十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)」という深い罪を犯しても救い取る弥陀の本願があるわけですから、それを受けていくには念仏だけで良い、とおっしゃっていた人ですから、その方が「戒は仏法の大地なり」とおっしゃるのは、ちょっと論理的な矛盾があるんですが、この状況ではそういう考えを明確に示さないことには、立ちどころに自分が始めた新しい思想の火が消されてしまう。一応組織のトップとして、そのような柔軟な態度を取らざるを得なかったと思うんです。
―― 延暦寺向けには言わざるを得なかった、ということですか。
町田: そうですね。それほど延暦寺、あるいは頂点におられる座主というのは、権力を持っておられたわけですよ。
―― 火の手は治まったんですか。
町田: 治まらなかったんですよ。すぐに翌年、元久二年(1205)に「興福寺奏状(こうふくじそうじょう)」というものが書かれるわけですね。これを認(したた)めたお坊さんは貞慶(じょうけい)と言われて、大変な学僧で、自ら戒律も厳しく守っておられたそういう方が決して感情的ではなくて、理路整然と法然の教えの非を突くわけです。
―― 興福寺といえば、片や比叡山の延暦寺と、当時のまあ言ってみれば二大拠点のようなところでしょうね。
町田: そうなんですね。個人的にお書きになったんじゃなしに、南都北嶺の八宗を―八つの宗派を公的に代表して書かれたもので、これを朝廷に提出するために書かれたわけです。それは九箇条からなっているんですけれども、一部言ってみれば、「法然という人は国家の承認がないまま新しい宗派を興している」と。当時は朝廷が承認しなければいけないにも関わらず、あるいは「摂取不捨曼荼羅(せっしゅふしゃまんだら)」というような、今までなかったような曼荼羅を勝手に作ってしまっているとか、阿弥陀以外の仏様を全然拝もうとしない。当時もっとも大切に読まれていた法華経を読まないとか、お寺へ人々がせっかく寄進しようとしているその行為を否定する。そのようなことを次々と非常に明晰にリストされて朝廷に出されたわけですね。これは大変大きなインパクトがあったわけです。もう連続してですからね。一回目は延暦寺、二回目は興福寺、先ほどおっしゃったような仏教の京都と奈良の二大拠点が、口を合わせて法然とその信者たちの非を突いているわけですから、これは危機的な状況に置かれたと考えていいでしょう。
―― どういう言い方をしたのかというのをちょっとこれで見てみましょうか。
上人は智者(ちしゃ)なり。自ら定めて謗法(ほうぼう)の心はなきか。(中略)但(ただ)し、門弟の中、其(そ)の実(じつ)知り難し。愚人に至りては其の悪(あく)少なからず。根本枝末(こんぽんしまつ)恐らくは皆同類ならん。
(『興福寺奏状』)
町田: そうですね。やっぱり貞慶という人は非常に冷静に法然上人を見つめていたわけですよ。彼は智者だ、と。智慧のある方だ、と言っているわけですよ。だから決して自分で積極的に仏法を汚そうというようなお心は持っておられないと思う、と。しかしながら弟子の中には師匠の心中をちゃんと理解せずして、非常に愚かな人間が次々と出て、彼らが犯す悪事というのは決して小さなものではない、と。大変な状況が起きてしまっている。ということは、そのリーダーである法然さんには過ちがないとは言ったものの「根本枝末(こんぽんしまつ)恐らくは皆同類ならん」と。結局組織としての専修念仏が間違っているんであるから、これはこの時点で停止・禁止をしないと大変なことになります、という警告を発しているわけです。
―― おっしゃるように、貞慶自身は認めている部分があったわけですね。
町田: 法然さん個人は認めているんですね。法然さんも学僧である、と。大原談義というのがあるんですが、大原に法然さんを中心にしてお坊さんたちがデベート(debate)をするということがあったんですが、その時に貞慶は会っていますからね。法然は如何に徳があり、学問があるかということは、個人的に早くから知っていたわけです。だけども結果として、その教えが非常に社会的な不穏な状況を生んでしまっているから、もうここで止めなければいけない、と判断された上での興福寺奏状なんですね。で、結局延暦寺と興福寺の動きを無視できなくって、朝廷が動き出したのを「建永(けんえい)の法難(ほうなん)(1207)」と言うんです。
―― その法難の中味は何ですか?
町田: これは一二○七年、十三世紀冒頭に起きた日本で最初の組織的な宗教弾圧と言えると思うんですが、最初は些細なことだったと思うんですが、法然さんのお弟子さんに住蓮(じゅうれん)、そして安楽(あんらく)という二人の優秀な若いお坊さんがいたんですが、彼らのお念仏というのはお師匠さんよりも音楽的だったんでしょう。「六時礼賛念仏(ろくじらいさんねんぶつ)」と言われていて、天台宗の比叡山で実践されていた音楽的な念仏を取り込んだ節の付いた念仏の称え方ですね。それが非常に人気を博したわけですよ。まあ今でいえば、ブルースかジャズのような、そういう魅力があったんじゃないですか、民衆にとって。ですから実に多くの人が京都の法然院とか、あの辺にいくつかございますけれども、あそこに多くの方が集まって、この六時礼賛念仏を毎日毎晩称えていた、と。そこに時々法然さんも加わられたと思うんですが、そこへたまたま来ていた松虫(まつむし)・鈴虫(すずむし)という御所の女房が特に熱心に通いまして、念仏の美しさにも惚れ込んだだろうし、そしてその背景にある法然さんの教えに心酔したんでしょうね。結局その二人は出家してしまうわけですね。尼さんになってしまって。ところがまたタイミングが悪くて、彼女たちが仕えている後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が熊野詣(くまのもうで)をしている最中に、留守の間に出家してしまったんです。この後鳥羽上皇という方は、二十遍以上熊野詣しているんですね。一番たくさん熊野に出掛けた皇室の方なんですが、たまたま留守中に出家をしたということで、これが大スキャンダルになるわけですね。住蓮・安楽と松虫・鈴虫の間に男女の関係ができて、それで若いお坊様が若い御所の女房たちを騙して出家させてしまった、と。こういう噂が一気に広まってしまったんですね。それはもう止められなかった。それで結局後鳥羽上皇は二人を断首―首を切ってしまうわけですね。一人は近江(おうみ)の蒲生(がもう)で、もう一人は京都の加茂(かも)の河原で処刑をしてしまう。これは見せしめですね。おそらく公開でしたと思うんですが、法然の教えに従っていては、こういうことになるんだぞ、というふうに、大衆にみせしめるためにしたものと思います。実際にそういうスキャンダルがあったかどうかは大変疑わしくて、きっとなかったんだと思います。単にお念仏の世界にその女性たちが自主的に飛び込んできたんだと思うんですけれども、後世蓮如上人(れんにょしょうにん)も無実の風聞と。これはまったく事実無根の噂であった、ということを『歎異抄』の最後の方に書いておられます。
―― 要するに「念仏潰し」ということですね。
町田: そうですね。ここで朝廷も専修念仏というものを根絶しないと、ひょっとしたら朝廷の立場も危うくなるかも知れないという、それぐらいの危機感を持っていたかも知れないですね。律令(りつりょう)体制とか、そういうものまで揺るがすような民衆運動に発展するかも知れない、と。ましてや延暦寺も興福寺も正式にクレームを届けてきているわけですから、それも無視できないし、結局ちょうどいいきっかけとして、松虫・鈴虫の事件が非常に誇張されて受け止められて、こういう大変悲劇的な結末になって―彼ら以外にも処刑された人はいるんです。法然さんも還俗させられて、藤井元彦(ふじいもとひこ)という名前まで与えられて四国に流される。うんと若かった親鸞さんも重要な弟子だということで越後に流されるわけです。ですから末端の人間も処罰するし、リーダー(指導者)たちも都に置かないということで、もう本気で弾圧を加えたんだと思います。
―― 権力側にとってみれば待っていましたとばかりというか、あるいはかなりのところまでは自分たちで作ってしまったというところもあるかもわからりませんが―それはわかりませんが、しかし法然という人は、つまり戒を守るという言いますか、お弟子さんたちや信者たちには戒無用ということを言いながら、ご本人はそうではなかったんですね。
町田: そうなんですね。そこがなかなか法然を理解していくうえで難しいところで、倉田百三(くらたひゃくぞう)という作家もかつて言ったことですけれども、「法然は不徹底であると。親鸞さんは肉食妻帯(にくじきさいたい)で、法然の教えをもう体当たりで実践されていかれたのにしては、法然はどうも中途半端である」と、そういう見方が割合にあるわけですけれども、私はそういうふうに単純には考えていないんですね。やはり宗教体験を非常に大切にされていた方ですから、戒律を保つというのはもう身体的な条件として、どうしても踏まえなければいけなかったことだと思うんですよ。例えばスポーツ選手でも、いい成績を残すためには大変慎重な体調管理をしたり、自分のメンタルケアをしたりします。そうでないと一流のスポーツ選手になれないのと一緒でして、宗教家も深い体験を得るためには、自分のメンタルな、あるいはフィジカル(肉体的)な状態を細心の注意を持って調えていく必要があったと思うんですよ。それはもう法然さんがよく理解しておられて、そういう言葉を残しておられますね。それを見てみましょう。
―― その部分はこういう言い方なんですが、
「戒行(かいぎょう)の人師(にんし)釈(しゃく)していはく、尸羅清浄(しらしょうじょう)ならざれば、三昧現前(さんまいげんぜん)せずといへり」
(『聖光上人(しょうこうしょうにん)伝説の詞(ことば)』)
町田: これは過去の戒律を保った人の言葉を私が解釈すれば、「尸羅(しら)」というのはサンスクリット語のシーラ(Sila)の音写で、戒律という意味ですが、それが清浄に保たれていなければ「三昧現前せず」。彼は定善観のような浄土の光景を目の当たりにするような、そういう念仏をしていましたからね。深い念仏体験を持つには戒律を無視してはいけない、と。そういうちょっといつもの教えとは違う立場からお話しになっていますね。
―― あれだけ周りに集まってきた信者たちには、そんなに厳しく戒を守ることはない、と言っていながら、法然自身は大変自戒の人だった、ということなんですか。
町田: ええ。そしてやはり組織的に、先ほどから申しておりますように、大変危険思想を説いている危険な集団だと思われていたわけですから、その中心におられるリーダーである法然さんは、自分の論理的な矜持(きんじ)というものを非常に高く保たないと、少しでも隙をみせると、どんなことで避難を受けるかわからない。自分の教え、思想が過激であるが故に、自分の身の振る舞いについては非常に慎重であった、と思うんですよね。その証拠にお亡くなりになる時に、九条の袈裟―九条というのは非常に長い袈裟なんですが、それを尊んでお坊さんは肩に掛けるんですけどね。位の高い方が掛ける袈裟なんですけども、比叡山では九条の袈裟を掛けるのは、第三代天台座主の慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)(794-864)以来の伝統で、天台円頓戒(てんだいえんどんかい)を保つ者だけに九条の袈裟の着衣が許されていた。三十年もいた比叡山を去ってしまわれた法然さんが、死の床で九条の袈裟を掛けられるわけです。これは自分は一生不犯(ふぼん)―一度も戒律を犯したことがないというそういう宣言をされたようなものです。ですからそれほど戒律に対して強い意識をお持ちの方だったんですね。
―― それだけ法然自身は、戒を守るというか、自戒の人であったにも関わらず、信者の人たちに向かっては、その戒のことをあまり言わなかったというのは、どうももう一つよくわからないんですが。
町田: いや、それは信者は戒律なんて考える閑もない、飢えていたわけですから。戦争に行くか、戦争で殺されるか。食べ物がない。疫病が広がる。地震がくる。大火事が起きる。洪水がある。そんな状況だったわけですから、戒律というものをまったく考えるゆとりがなかったわけですから、それは法然さんのような宗教的な指導者の立場では、今更そういう人に向かって、「あなた、これ釈尊以来の教えなんですから、戒を破ってはいけませんよ」と、それは言えなかったんですよ。だけど自分は指導者として、宗教家として、そこはお崩しにならなかったわけですよ。その辺はかなりはっきり区別しておられたと思うんです。それは私は、矛盾と取らなくってもいいと思うんですが、その辺は妥協はされなかったですね。ご自身がお若い時から随分戒律については、苦悩された形跡がありますよね。そのお言葉をちょっと見てみましょう。
―― こんなふうな言い方をしているんですが、
およそ仏教おおしといえども、詮(せん)ずるところ戒定慧(かいじょうえ)の三学(さんがく)をばすぎず、いわゆる小乗(しょうじょう)の戒定慧、大乗(だいじょう)の戒定慧、顕教(けんぎょう)の戒定慧、密教(みっきょう)の戒定慧なり。しかるにわがこの身は、戒行(かいぎょう)において一戒(いっかい)をもたもたず、禅定(ぜんじょう)において一つもこれをえず、智慧において断惑証果(だんわくしょうか)の正智(しょうち)をえず。
(『聖光上人伝説の詞』)
―― これは比較的若い時なんですか。
町田: これはまだ比叡山の黒谷に修行された時に残された言葉だと思うんですが、仏教の教えが非常にたくさんあっても、結局は「戒律」と「禅定」―瞑想のことですが、そして仏典を学んだ「智慧」、それが三つの柱になっている。それは大乗佛教であろうが、上座仏教であろうが、顕教であろうが、密教であろうが変わらない。この三つの「戒定慧」が仏教の柱になっている。ところが自分はその三つの柱の一つである戒なんて一つも守れておらないし、深い禅定に入ることもできない。で、なんぼ仏典を読んでも、智慧がひらかれない。迷えを断ち切ることがなく、悟りを手に入れることができない、とお嘆きになっている言葉なんですよね。ですからずっと若いですから、この宗教と道徳の問題について頭を悩まされていたわけですよ。その結果として、非常に単純明晰な専修念仏というか、愚鈍念仏というか、一心に「ナムアミダブツ」だけ称えればよい、と。そこに辿り着かれるわけですけれども、お若い時にはやはり相当葛藤があったわけで、宗教を体験する、あるいは深い信仰の世界に入っていくというのは、実は大変大きな矛盾がありまして、というのは我々の浅い意識のレベルを遙かに乗り越えて、自分たちのもっとも根元的な意識の世界に入っていかないと、まあ悟りというものはひらかれないわけですから、私の著書の中に『〈狂い〉と信仰』というのがあるんですが、そこで論じたことがあるんですが、人間の存在そのものは大変狂おしいもんですよ。いつか申しました阿頼耶識(あらやしき)があって、そこに否定的な記憶が溜まっている、と。そこまで飛び込んでいったうえで、仏法の光に照らされる、という体験を持たないと、本当の意味で目覚めるということはあり得ないわけですが、そういう混沌未分の真っ暗な世界に飛び込んでいったまま社会的常識を完全に忘れてしまうというか、無視してしまうような、そういう結果も起こりかねないわけですね。まあ宗教には常に狂信主義とか、原理主義とか、あるいはカルトとか、そういうことでよく問題になりますけれども、宗教の本質に社会常識を越えてしまうような、そういう働きがあるんですよ。で、実際に社会常識を越えるぐらいの深い体験を持たないと、智慧というものがひらかれることはないんですが、その混沌未分の狂おしい世界に飛び込んだままだと、禅宗の方では「野狐禅(やこぜん)」と言います。浄土教の方では「本願ぼこり」と。弥陀の本願がすべてを救い取ってくれるから、自分たちは何もしないで良いのだ、と。そういう考えは禅や浄土に限らず、あらゆる宗教に付随する危険性なんですよね。で、ここで面白いエピソードをご紹介してみたいんですが、禅宗の方で、「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」という公案があるんです。公案というのは坐禅の最中に考える問題のことなんですが、百丈和尚がある人を相手に問答をした、そのお話なんですが、ここで出てくるのは、ある老人が百丈和尚が多くの人に法を説いている時に、ある老人が正面に座って、いつまでも帰らない。で、「どうしたのか」というと、「実は私はかつて出家であった。悟りもひらいた出家であった。誰かが私に、あなたのように立派な悟りをひらかれた方は、世間の道徳に制約されないのか。道徳を越えてしまったのか」という質問を受けた。その時に私は「不落因果(ふらくいんが)―因果が落ちない。そういう常識的な因果律に落ちることがない。完全に道徳を越えてしまっていると、簡単に答えてしまったが故に、五百生―五百回の人生で私は狐になってしまっている、野狐になっている。ですから助けてください」というふうに、百丈和尚のところに来るわけです。「だから今日和尚さんの説法を聞きに来たんです。是非助けてください」と。そこで百丈が、「同じ質問を俺にしてみろ」と。で、そのお爺さんが、「悟りをひらいたものは、世間の道徳に制約されないのですか、道徳を超越するんですか」と訊くわけです。百丈が、「不昧因果(ふまいいんが)」―因果を眩(くら)まさない」というふうにいうんですよ。これは因果律を無視してはいけない、という意味なんですが、それを言った途端、言下にこの老人が悟って野狐の身を脱却したというお話なんですが、これは作り話だと思うんですが、この「不落因果」と「不昧因果」、この違いをしっかり認識していくことが、宗教に関心を持つものにとって非常に大切だと思います。単なる道徳ではないんですね、宗教というのは。信仰というのも単なる倫理じゃないんですよ。だけどもそれを無視していいかというと、そうでもない、と。自分の底なき無意識の世界に飛び込んでいく、アンチコスモスに飛び込んでいって、そこから自分を見直すということが大切なんですが、同時に一度混沌未分のアンチコスモスに飛び込んでも、必ずコスモスに常識的な人間として当然なすべきことをなすという、そういう世界に戻って来なければいけないわけですね。「往相(おうそう)」と「還相(げんそう)」と言ってもいいと思うんですが、この往来が大切なんですよ。これは一回ですむことではなしに、宗教体験というのは、あるいは信仰というのは、どんどん深みに入っていきますから、ある時はコスモスに戻り、またある時はアンチコスモスをたずねて体験を深めていく、という繰り返しをすることによって、宗教理解が深まっていくわけですが、一方通行でコスモスというのは世間的な常識で、非常に堅苦しくって、身を窮屈にするものである、と。それを否定してしまって、アンチコスモスの世界に飛び込んだままだと、それは大変間違った、それこそさまざまな問題を起こしているカルトとか、そういう問題になってしまうわけですよ。そうじゃなしに、信仰はそういう面があるけれども、もう一度社会常識に戻ってきて、一般市民として当たり前の生活を評価するような立場に戻ってこなければいけない、という意味がこの百丈野狐の公案にあるんです。
―― 今おっしゃる行ったきりになった危険というのは、つまり禅でいえば「野狐禅」であったり、あるいは「本願ぼこり」ということだと思うんですけれども、さっきの法然の言葉の中にあったあの言葉から、私は、例えば信仰というのは、確かに一面では救いの道、救いの真理をもっているかもわからないけれども、もう片一方では人に絶望というのか、つまりそれをもたらすということがあると思うんですね。それにどれぐらい気が付くかということで、行ったきりになってしまうのか、あるいはちゃんと戻ってくるのか、その辺のところがあるような気がするんですけどね。
町田: そうですね。やはり信仰を持つことによって、自分のありのままの姿が見えてきますからね。これはもう理性・知性を越えたもっと高い次元で自分を見つめ直すことになりますから、どうしても一旦は絶望せざるを得ないんです。だから歴史に名を残している宗教家というのは、すべて自らに深く絶望しているんです。自分の愚かさ、煩悩濁の己の姿におののいた人ばっかりです。そこから禅をして悟りをひらくとか、もっと厳しい行をして仏の智慧に目覚めていくとか、そういうことなんですよね。そういう徹底した自己否定の体験なくして、うわべで残された先人の教えを文字通り守るようなことをしていけば、先ほど言ったような一方交通の信仰になってしまう、そういう危険性は充分にあります。
―― きっとその絶望が、あるいは自分の至らなさということに気が付けば付くほど、その後まさに絶望的な境涯に自分が置かれているんだということに気が付けば付くほど、町田先生も本の中でお書きになっていますけれども、「人は謙虚になる」とおっしゃっていますね。
町田: そうです。それは宗教家たる者は、上からの目線で人に語り掛けることがあってはいけないと思うし、それはできない筈です。自分に絶望して、自分の愚かさに一度気付いたなら、何人よりも自分は低い立場にあるわけですから、そういう人間が他者に向かって、偉そうに、尤もらしく語るというのはあり得ない話なんですね。自分が愚かであるが故に神の救いに預かっている。仏の導きに預かっている。いつか西田幾多郎の「逆対応」という言葉を遣って説明さして頂きましたけれども、自分が小さく小さくなればなるほど、あるいは自分が低くなればなるほど、神の光が一気に、仏法の光が一気に射し込んでくるという、そういうメカニズムがあるわけですから、何か自分が行をしたとか、学問を積んだということで、人に対してこう高飛車に口をきくというのは、宗教者としてあるまじき態度でしょう。
―― 法然はそういう意味ではどうだったでしょうか。
町田: 法然さんは、先ほどお見せしたように、比叡山三十年で、苦悩に苦悩、葛藤に葛藤を重ねてきた人ですから、自分の醜さ、愚かさ、弱さを痛いほど見つめた人です。そこから出てきたのが専修念仏なんですね。そこに全然ブレがないわけです。社会的な立場に立たれてから、いろいろ矛盾する言説は残されていますけれども、それは組織を導く人間として当然とらざるを得ない責任ある態度だと思うんですけれども、法然さん個人は子どもの時から八十歳でお亡くなりになる時までまったくブレがなかった、と私は理解しています。
―― まさに伺っていますと、法然という人は、自戒の人というのはよくわかるんですけれども、言葉を換えれば、「倫理上の縛り」ということをもの凄く大事にした人だったんですね。
町田: そうですね。私たち自身が矛盾する存在ですからね。肉体を持つ人間ですから、やはり私たちも社会の中で生きている限り、社会の制約を受け止めて、その中で生きていかざるを得ない。しかし自分の心まで、それに束縛される必要はないという、そういうメッセージも発しておられるわけですよ。一市民として社会的責任は果たさなければいけないけれども、自分の心は無限世界に解放していくという、大変矛盾する動きではあるんですけども、それは決して不可能なことではないと思います。
―― 道徳から、あるいは倫理からはずれることが許される。そんな信仰、そんな宗教があってはならないし、ある筈はない、と。
町田: でも歴史上日本だけでなしに、世界のあちこちで、特定の教義にあまりにも無反省に従うが故に、大きな過ちの事例はいっぱいありますからね。この辺は常に宗教に足を踏み入れたものは常に自分を振り返って用心していく必要があるでしょう。まあ宗教は大変素晴らしいものですが、それと同時に大変恐ろしいものにもなり得る、という自覚を持っておれば間違いはないと思います。
―― 次回は九回目なんですが、「法然と明恵」でしたですね。
町田: このお二人の間のコントラストも非常に面白いものがありますから、是非そのことを語ってみたいと思います。
―― 次回もまた楽しみにしたいと思います。どうも有り難うございました。
これは、平成二十一年十一月十五日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものである