東京外国語大学教授 町田宗風
ききて 草柳隆三アナウンサー
―― 「法然を語る」の四回目です。法然が生きた平安末期から鎌倉時代にかけては大変な激動の時代だったと言われているわけですが、その中で法然は、自分自身の絶望であるとか、あるいは社会に広まる不安、そういった状況を前にして、その中でどのように救いの道を見出していったのか。いわば絶望から希望への道程はどうだったのか。今日は今回はそれがテーマです。いつものようにお話は広島大学大学院教授の町田宗鳳さんです。よろしくどうぞ。
町田: こちらこそ。
―― 今日の番組の道筋のキーワードは、「絶望から希望へ」ということですね。
町田: そうですね。前回キルケゴールの「死にいたる病」という言葉を遣って、法然の生きた時代が死にいたる病に罹っていたし、法然ご自身も父の死から始まって、さまざまな苦労を重ねられて、まさに絶望である死に至る病に罹っておられた。そのような深い闇の底から黒い雲を突き抜けて、やっと明るい太陽の光を見始めた、というお話を今日はさせて頂きたいんですけど。
―― つまりその道筋で一体何があったのか、ということですね。
町田: そうですね。叡山に長くおられる時、学問も研鑽を積んでおられましたけれども、当時の延暦寺はお念仏が盛んに行われておりまして、それは源信の時から始まったと思うんですけれども、「山の念仏」と呼ばれるお念仏を、僧侶もまた山に上がってくる貴族たちも、一生懸命に「山の念仏」に励んでいたわけですね。それはどちらかというと、やや音楽的に称えるお念仏、そして「観想念仏」と言いますか、浄土の光景を思い浮かべるようなことにポイントをおいたお念仏を皆さんしておられたわけですね。ですから若き日の法然さんもその「山の念仏」に十分馴染んでおられたと思いますよ。
―― 法然は十何歳かで比叡山に入って、全部で二十数年間、
町田: いや、十三歳から四十三歳までですから、まるまる三十年間ですね。その間、やはり「山の念仏」に随分深く入り込んでおられたと思いますよ。
―― どういう修行をしていたんですかね。
町田: 今でも叡山では常行三昧(じょうぎょうざんまい)とか、常座三昧というような行があるわけですけれども、一日中朝も晩もお念仏を称える。法華経も当時は称えられていたわけですけれども、お昼間に法華経を称えて、夜になると夕暮れ時からお念仏を称える、という行法があったわけですね。ですからそういう伝統的な山の念仏をしておられたわけですけれども、だんだん黒谷でお一人で念仏に励んでおられる時に、いわゆる「称名念仏」―淡々と声に出すお念仏ですね。あまり音楽的ではなくて、非常に無心に繰り返していくお念仏。そういうものを独自に作っていかれたと思うんですよ。それをやがて「愚鈍(ぐどん)念仏」というふうに呼ばれるわけですけれども―「愚鈍」というのは、愚かなほどに無心に称えるお念仏ですけども、そういう非常に複雑な念仏の称え方から単純なお念仏にだんだんと帰結していったんじゃないかな、と、私は思っています。
―― つまりそれまでの「山の念仏」というのは、かなり古典的な念仏の仕方、それからどんどん変わっていったということなんですか。
町田: そうですね。ただ法然さんも『観無量寿経』に記されている定善観(じょうぜんかん)という非常に集中的な念仏の行に邁進されていたわけです。実は晩年まで続けておられるんですけども、一日に六万遍から七万遍称えるという。これは非常に凄いことだと思うんですけれども、集中的に念仏を称えまして、浄土の光景を十三の段階に分けて見ていくという不思議な宗教体験ですけれども、それをどうも積んでおられたようですね。
―― 六万遍から七万遍と言ったら、ほとんど一日中称えていた、といってもいいぐらいですよね。
町田: ええ。相当なスピードで称えないと、それは無理だと思うんですが、そこで三昧に入るというか、深い意識の深いところに入っていかれて不思議な体験を重ねられるわけですよ。阿弥陀の姿を見たり、浄土の光景を見たり、そういうことをされて、それは法然さんにとっては非常に大きな意味があったと思います。というのは、それは彼が生きていた時代は、死が溢れる時代でしたからね。戦乱とか飢餓とか、人が軒並み死んでいくような、そういう時代に生きておられたわけですから。で、死というのは地獄に堕ちるかも知れない、と。それは怨霊の祟りかも知れない、と。非常に暗いイメージで死が受け止められていたわけですけれども、そういう念仏ですね、定善観の体験を持つことによって、死の意味が根本的に変わるわけですよ。闇の死から光の死へ、と。今まで亡くなるということは地獄に堕ちるかも知れないという恐怖から、いや、亡くなっても誰でも光り輝く阿弥陀様に迎えて頂く、と。それを確信するような体験だったと思うんですね、定善観というのは。
―― それのそもそものきっかけになった言葉というのを用意してあるんですが、ちょっと読んでみます。
一心(いっしん)に専(もっぱ)ら弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節の久近(くごん)を問わず、念々(ねんねん)に捨てざるは、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名づく、かの仏(ぶつ)の願(がん)に順ずるがゆえに。
町田: これは善導(ぜんどう)のお言葉ですけれども、
―― 善導というのは?
町田: 中国の浄土思想を自立した非常に大きな存在の方ですけれども、法然さんは「偏依善導(へんねぜんどう)」と言われているぐらい善導の著作を通じて念仏信仰、あるいは浄土教の教えに深く傾倒されたわけですよ。ここで言われているのは、一日行住坐臥ですから、二六時中生活している時に念仏を淡々と称えることによって、それだけで救われていくんですよ。他のことはいろいろ考えなくてもいいです、と。それは仏様がお約束されたことですから、安心して念仏を称えていきなさい、と。そういうことをおっしゃっているんだと思うんですが、これで法然さんは確信されたと思うんですね。
―― これを「正定(しょうじょう)の業(ごう)と名づく」というのはどういう意味ですか。
町田: これがまさに仏教のいろんな修行の方法があるわけですけれども、これがもっとも正しい本筋の行である、というふうに善導は宣言したわけですよ、称名念仏。それまでは称名念仏というのは、厳しい仏教の行ができない劣った人のための行だ、というふうに考えられていたわけですね。ところがそんな禁欲的で複雑な行をしなくても、まさに称名念仏を、南無阿弥陀仏と称えることがもっとも正しい仏教の表玄関からの行であるというふうに、善導はここで言っているわけです。
―― 今のこの言葉が後の法然の修行の、いわばとっかかりになったわけですか。
町田: そうですね。ご自身は定善観という非常に集中的な念仏をされていたし、思想的には善導のこういう言葉にも励まされていたわけですけれども。
―― その定善観という行法は、お経の中にある一つの方法なんですか。
町田: ええ。これは『観無量寿経』に記されている行法なんですよ。ただ法然さんはこういう体験を後になって批判的にご覧になっているわけですよ。お若い時は随分定善観に励まれたわけですけれども、後になって、むしろそれを否定するような発言をされています。
―― 定善観というのは、これはひたすら念仏を称える行ですか。
町田: 念仏を繰り返し繰り返し称えるんですけれども、ちょうど言ってみれば、現代の日本人には宇治の平等院って、どなたもご覧になっている、ああいう美しい建物の中に美しい阿弥陀様がおられる。前には池があって、蓮の花が咲いていて、という。そういう光景を念仏しながら思い浮かべる修行のやり方なんですよ。でも、それは後になって否定されております。というのは、一種の神秘的な体験ですけれども、現実の自然の風景に勝るものではない、というお言葉があります。それをちょっと見てみましょうか。
―― こういう言い方をしているんですが、「つねに仰せられける御詞」と、これは法然の言葉として留めてあるものですね。
近来の行人観法(ぎょうにんかんぽう)をなす事なかれ。仏像を観ずとも運慶(うんけい)康慶(こうけい)がつくりたる仏ほどだにも、観じあらはすべからず。極楽の荘厳(しょうごん)を観ずとも、桜梅桃李(おうばいとうり)の華菓(かか)ほども、観じあらはさん事かたかるべし。
(『つねに仰せられける御詞』)
―― これを噛み砕いて教えてください。
町田: お念仏とか、あるいは坐禅という方法もあるだろうし、当時は「摩訶止観(まかしかん)」という行もされていたわけですけれども、そういう瞑想の中で浮かび上がってくるイメージ、それがどれだけ美しいものであっても、実際に運慶とか康慶が刻む、非常に名高い仏師が刻む仏像に勝たない、と言っているんですよ。あるいは極楽の美しい風景を瞑想の中で見ても、自然の中の桜や梅、そういった花や果実の美しさには勝るものではない、と。ですから、そういう不思議な体験を持っても、決してとらわれてはいけないということを、彼は言っているわけですよ。また直接的に否定するお言葉も残しておられますね。
―― 今のお言葉もそうなんでしょうけれども、法然という人は、今おっしゃったように不思議な体験をしたことについて自ら書き記しているんではなくて、例えばお弟子さんたちがそれを聞き留めて残した記録がほとんどなんですか。
町田: そうですね。直筆の文書が残っていないからはっきりしないんですが、部分的にはいろいろ定善観の体験を書き留められてあったようですよ。それをつぶさに弟子が記録として残したと思うんですけれども。
―― じゃ、次の言葉を読んでみたいんですが、こんなふうにもまた言っています。
ある人問(とう)ていはく、色相観(しきそうかん)は観経(かんぎょう)の説也(せつなり)。たとひ称名(しょうみょう)の行人(ぎょうにん)なりといふとも、これを観ずべく候か、いかん。上人の答ての給(たま)はく、源空もはじめはさるいたづら事をしたりき。いまはしからず、但信(ただしん)の称名也と。
(『諸人伝説の詞』)
―― これもまた噛み砕いて教えてください。
町田: ここで出てくる色相観は、先ほど私が申しました定善観のことですが、観無量寿経に記されているから、専修念仏をしている私たちも、それを実践すべきですか、と、ある方が問うているわけですよ。それに対して、源空、つまり法然は、私も以前はそういういたずら事、ムダなことをしておりました、と。しかし、今はそうではありません、と。「但信(ただしん)の称名也と」信仰だけを持って、無心に淡々とお念仏を称えていますと、それが正しい道ですよ、と説いているわけですね。ですから、これは非常にある意味、我々が現代においても考えるべきメッセージがありまして、現代では割合に不思議な霊的な体験ということに興味を持ちがちですけれども、宗教の本質はそこにはない、と言っているわけですよ。宗教体験というのは、理屈の世界じゃないですから、心の深いところに入っていくのが宗教体験ですから、その中ではなかなか理屈だけでは説明できないことも起きたりするんですけども、一種それを脳内現象と考えてもいいと思うんですけれども、必ず日常の意識とは違う世界―それを宗教学の言葉では「意識変容体験」というんですが、意識が変容するような体験があるわけですが、それは宗教の本質ではないわけですよ。そういうことを、法然さんは今の言葉で警告しておられると思うんですよ。やはり信仰にしろ、何らかの修行にしろ、一種の判断停止をしなければいけないんですよ。いろいろ考えることを止めて、一点に意識を集中していく、ということですからね。そこには一つ間違えるととんでもない方向にいってしまう。社会倫理に反するような、かつて日本でもそういう大きな事件があったわけですけれども、宗教体験というのは大変危ない面もあるということを、私たちは自覚しておくべきでしょう。そしてまた宗教を行ずる時は、師匠に就いてやりますから、その師匠の導きには絶対服従という面があるんですよ、弟子としてはね。しかし師匠がもし間違った見識を持っていたら、同じように間違った方向にいってしまう可能性がありますから、その辺にもやっぱり信仰の世界の恐さというようなものがあるんですよ。それとやっぱり厳しい行―定善観にしろ、いろんな仏教にはいろんな行があるわけですが、仏教のみならず世界の宗教にはさまざまな大変意志力のいる禁欲主義的な行があるんですが、それをすること自体は素晴らしいことなんですけれども、かえってそういう世界に入っていくことによって、エゴが膨らんでしまうというか、自我意識が膨張してしまう。それは心理学で「自我膨張」というんですが、インフレーション―経済でも「インフレ」という言葉を遣いますが、神学にも「インフレ」という言葉がございまして、それは本当は自分を消すため、自己を消していくための行なのに、反対に厳しい行をすることによってプライドが出てくる。自慢が出てくるというのは、これはまさに心理学でいう自我膨張なんですね。ですから、私も長年臨済宗の雲水として道場で坐禅を組んでいた人間ですけれども、本来は行をすればするほど謙虚にならなければいかんのに、反対に俺は特殊な修行をしたんだ、と。普通の人がしないような行をしたんだ、という自慢が出てくる。そこにやはり宗教の恐さというものがあります。
―― つまりどんな宗教にも、今おっしゃったようなそうした落とし穴があるということなんですね。
町田: ええ。すべての宗教にあります。本当は無心になって、自分を消して、神・仏に近づいていかなければいかんのだけれども、反対に自分が大きく出てしまう、と。幻想のエゴが膨らんでしまう、という面があるんですよ。ですから、先ほどの法然さんのお言葉、「いたずら事はする必要はない」というのは、とってもいいメッセージを現代の我々にも送ってくださっている、と思いますよ。
―― そういう妙な奢り高ぶりを持たないための本当の宗教の本質というのは一体どこにあるんでしょうか。
町田: 宗教の本質を一言でいえば、苦しみの消滅ですよ。悩みを消していくことにあるわけですから、それにはエゴを消さなければいけない。お釈迦様―ブッダの教えの中に、「四聖諦(ししょうたい)」というのがございまして、それは「苦集滅道(くしゅうめつどう)」と言われていますけれども、この世は苦である、と。悩みである、と。サンスクリットで「ドゥッカ(duhkha)」というんですけど、それは「苦しみ」ということですが、この世は苦である、と。そして我々肉体を持つ人間はその苦の集まり―「集」ですね―煩悩欲望の集まりとして非常に苦しい人生を生きているのが人間である、と。ところが三つ目の「滅」で、それを消すことによって、自我を消すことによって、苦しみも消していくことができるんである、と。苦しみというのは実在するものではなしに、エゴが苦しみですから、エゴを消せばエゴも実在しない幻想のものですから、それを消していけばよい。最後の「道」というのは、まさに仏道の道、修行のことですね。正しい行をすれば、自ずから自我が消えていく。そして苦しみも消えていく。それが「四聖諦(ししょうたい)」というブッダの教えだと思うんです。
―― 法然はその行を通じて消したんですか。
町田: そうですね。ですから定善観という非常に意識集中的な行をされたことがきっかけで、そこから抜けてこられるわけですけれども、やはり念仏をするということは常に自分を消す、ということなんですね。我があれば、お念仏になっていないわけですよ。お念仏を称えている時は、自我意識の底が抜けていなきゃいけないわけですよ。私にとっては宗教体験というのはそれほど難しいことではなくて、無限の広がり、無限の宇宙のような広がり、自分というのはそのような無限のスペース、空間のように、私は感じているんです。それを感得していく方法が、お念仏であったり、坐禅であったり、回峰行であったり、滝行であったりするわけですよ。方法論はいっぱいありますが、行き着くところは無限の広がりの自分に出会うということですから。
―― 無限の広がりの中で自分が生かされている、というそんな感じなんですか。
町田: そうですね。自分が生かされている、生かされている自分も消えてしまうわけですが、もう空気の広がりだけがそこにある、と。私が尊敬していた玉城康四郎(たまきこうしろう)(1915-1999)先生と言って、昔の東京大学の名誉教授で仏教学者の先生がおられたんですけれども、この玉城先生は非常にユニークで、立派な学者さんで、非常に学問的知識も豊富にお持ちだったんだけども、学者さんとしては珍しく、毎日のように坐禅を組んでおられたんですよ。私が今まで出会った学者の中で、もっとも深い人格、非常に静かな方でしたけれども、この方が「ダンマ(dhamma)の光が現れてくる」というような表現をしきりに使われたんですよ。
―― 「ダンマ」というのは何ですか。
町田: 「ダンマ」というのは「法」です。仏法の法のことを「ダーマ(Dharma)」というんです。それをパーリー語で「ダンマ」と言いますから、玉城先生は敢えて、「ダンマの光」という表現を使われたわけですけれども、それがこの肉体―この肉体を原始仏教の言葉で「業異熟(ごういじゅく)」という言葉があるんですが、「業(ごう)」は宿業の業―カルマのことです。「異熟」というのは、異なった時間に熟する、という意味があるんですが、この肉体、私がここに今生きているのは、過去の何百年、何千年、何万年と積まれてきたカルマが熟している、この瞬間に。この瞬間に起きている現象は、百年前の私のカルマが熟しているかも知れないし、五百年前かも知れない、一千年前かも知れない。ともかくタイミングのずれがあって、この瞬間に私の肉体に現れているということですが、煩悩の塊ということなんです、簡単にいえば。私たちの存在はそこにダンマの光が現れてくる、と。煩悩は別に消えて無くなるわけじゃないんですが、まさに煩悩を抱えたこの凡夫、愚かな愚かな自分の真ん中にダンマの光が現れてくる、ということを、玉城康四郎先生は坐禅を通じて体験されたわけです。
―― 今おっしゃる玉城さんがご覧になったという、そのダンマの光は、法然が見た何にあたるわけですか。
町田: それは阿弥陀様の姿です。法然さんは、お念仏を通じて浄土教の信仰に基づいて行をしておられたから、具体的な阿弥陀の姿として現れてきたわけです。玉城先生の場合はダンマの光というただの光。光の体験というのは、すべての宗教に共通して見出されるもので、例えば一例をあげますと、イスラム教にスーフィズム(イスラム神秘主義)というものがあるんですが、スーフィというのはイスラムの中でもマイノリティなんですけれども、とっても禁欲的な行をされる方で、常に羊の皮を裏返して、手のある部分を下着にして、自分を苦しめるような、それは贖罪(しょくざい)―罪を償う、という意味があるんですが、それを着て、ズィクル(連唱)と言って、「アッラーは偉大なり」と、そういう言葉を―お念仏と一緒です―「南無阿弥陀仏」を繰り返すように連唱するのをズィクル(連唱)というんですが、それで自我が消滅していく。それをファナー(消滅・消融)というんですが、そのファナーの状態でアッラーの光を見るというふうに、スーフィの人は言っておりますし、実際体験するわけですけれども、仏教とイスラム教とまったく違う宗教のようでありながら、こういう光の体験というのはさまざまな宗教に必ず存在するもんです。
―― キリスト教にもあるんですか。
町田: 勿論ございます。これはまた別の機会に、「諸宗教の光の体験」のお話を是非させて頂きたいと思っておりますけれども、法然さんの場合は、阿弥陀の姿で、「山越(やまごし)の阿弥陀図」というのがありますけれども、それは山の峰に上半身だけ阿弥陀仏が現れて光り輝いている光景ですけれども、まさにそういう光の体験を繰り返しお持ちになっていた。その「光る阿弥陀」というのは、結局死の姿なんですよ。今までは、死は闇であり、地獄であったのに、お念仏の信仰を深めることによって、「死即死=光る阿弥陀」という、そういう自覚に至られた、というところが、これは凄いことだと思いますね。
―― しかしその光、死=光ということを法然も見た。もしかすると、玉城さんもそれを「ダルマの光」ということでご覧になったとおっしゃいましたよね。そのことってどういうことなんですか。
町田: 自我意識が消えて、己が空しくなれば誰にでも起きることじゃないですか。そんなに不思議体験じゃないですよ。我々はいろいろ自我の曇り、いろいろな想念の曇りがありますから、太陽の光を雲が遮っているようなもんで、その雲を取っ払ってしまったら、それほど不思議な体験ではないと思います。現に現代社会においても非常に無心無我で人のために尽くしているような人に特別何か宗教的なものがなくても、そういうことを体験される方は今までもあるもんですよ。
―― そういう境涯を深めることが、最初の方にお話のあった奢りとか高ぶりにいくんじゃなくて、まったく逆の、つまり人に対する優しさであるとか、そういうところに当然現れてくる、という繋がりでその光を考えなければいけないわけですね。
町田: そうですよ。それはまさに慈悲の光ですからね。やはりエゴがある限り、本当の意味で人に対して思いやりなんて持てないと思います。肉体を持っているわけですから、エゴが百パーセント消えるということは、これはあり得ないです。あり得ない話で、でも私たちはそのエゴを少しでも小さくしていく。少しでも透明なものに近づけていくという責任が―一生かけてですよ―死の瞬間まで、少しでも心の曇りを取って、エゴを小さくしていくという、そういう責任が―宗教があるかないかとか、信仰があるかないかとか、そういうことではなしに、この世に肉体を授かったというのは、要するにその一点に目標は集中させていると思います。どこまでこの人生五十年生きる人、百年生きる人、さまざまおられるわけですけれども、どこまでエゴの影を消せるか、というところにもっとも重大な問い掛けがあると思いますよ。
―― 煩悩を抱えたまま、そうやって法然は大変な行をしながら、だけれども不思議な体験というのを否定しながら、もっと大事なことがある、というふうに言い続けて、だけど行そのものは亡くなるまで続けていたわけでしょう。
町田: そうです。ですからここをほんとに勘違いしないように、何か特定の期間厳しい修行をしたからそれでよいわけじゃなくって、人間の修行というのは一生続くわけですよ。その総決算が死に際に出てくるわけですよ。総決算がどれだけ立派なことを言っても、道徳的なことを言っていても―私もわかりませんよ―死の床に就いた時、臨終の間際に人間がどのように自分の生を終えていくか。これは人生の総決算がそこに出るわけですから、もう嘘・偽りが通用しない場面ですよね。そういう意味でも、法然さんは実に見事な人生の終わり方しておられるんですよ。
―― それをこれから見てみたいと思うんですけれども、法然という人はあの時代にあっては相当長寿な方だったんですね。
町田: そうですね。八十歳ですから。しかも法然さんは、瘧(おこり)という持病を持っておられたんですね。それは現代ではマラリアに似たような熱帯性の熱病じゃないか、と言われているんですが、時々悪寒(おかん)に襲われて、放熱を出すという瘧ですが、持病を持っておられたんですよ。そういう病を抱えながら、で、世の中は戦乱とか飢餓でひっくり返っているわけですから、そういう状況で八十歳まで長寿を全うされたというのは、やはりご自身の生命力もありますし、やはり大いなるものに護られて、しかも世の中に果たすべき使命をお持ちの方だったから長生きされたんじゃないかな、と私は考えています。
―― そういう臨終の床で言われた言葉を、これからいくつか紹介したいと思うんです。
その時看病の人の中に、ひとりの僧ありて、とひたてまつりて申すよう、極楽へは往生したまふべしやと申(もうし)ければ、答(こたえ)てのたまはく、われはもと極楽にありし身なれば、さこそはあらむずらめとのたまひけり。
(『御臨終日記』)
町田: 面白いです。ちょっと失礼な質問だと思うんだけど、これから法然さんがお亡くなりになる時に、それを看病しているお弟子さんの一人でしょう。お師匠さんに向かって、「日頃からお念仏すると極楽往生できますよ」とおっしゃっていますけども、本当にお師匠は極楽に行かれるんですか、と。こういうことを問い掛けているわけですから、ちょっと失礼な気もしますが、しかし平然として、法然さんは、「もともと自分は極楽にいたんだから、そこに戻るだけだ」とおっしゃっているんですよ。何の衒(てら)いもなくて。これは凄いことだと思いますよ。今から息絶えるという瞬間に、別に自慢するわけでもなしに、何か不思議体験として語るわけじゃなしに、「私はもともと極楽にいたんですから、そこに戻るだけですよ」と。これを聞いた人は嬉しかったと思いますよ。お師匠さんが日頃から説いておられる教えと、ご本人の確信の間に、最期の最期になっても、ぶれがないわけですから、これを聞いた人はほんとに感動したと思うんですよ。法然さんというのは努めて不思議な霊的な体験を語らなかった人です、周りの人にはですね。たとい自分の中にいろいろあったとしても、それを自慢したり、あるいは弟子に説教として聞かせることもなかった方が、「自分はもともと極楽にいたんだ」と、最期におっしゃるのは、これはちょっと驚きだと思いますね。
―― 今のなどを見ておりますと、たしかに死は肉体の死ではあるかもわからないけれども、しかし死は死でないようですね。
町田: そうですね。生と死―生死をもう超越しておられます。禅宗でも「大死一番」とか言いますけれども、お念仏からいこうが、坐禅からいこうが、また他の行からいこうが、いわゆる肉体の生物学的な生命を超越してしまっている。そういう心境におられたと思いますよ。もっと臨終の言葉を見てみましょう。
―― 次の言葉なんですが、
またそののち、臨終のれう(用意)にて、三尺の弥陀の像をすえたてまつりて、弟子等申やう、この御仏をおがみまいらせたまふべしと申(もうし)侍(はべ)りければ、聖人のたまはく、この仏のほかに、また仏おはしますかとて、ゆひ(指)をもて、むなしきところをさしたまひけり。
(『御臨終日記』)
―― ここではどういうことなんですか。
町田: 面白いですね。これは当時の平安社会の慣習でして、いわゆる来迎図―阿弥陀様とその眷属(けんぞく)が亡くなる人を迎えに来るという、そういう来迎というものを非常に大宮人(おおみやびと)は憧れたわけですよ。なかなかそれが本当に臨終の時に叶うかどうかわからないものですから、儀式として、亡くなる人の指と阿弥陀像の指を五色の紐で結ぶという慣習があったんです。それをするためにお弟子さんが阿弥陀像を持ち込むわけですよ。三尺の阿弥陀像を臨終の床に持ち込むわけですね。だけども、法然さんは、「そういうものは必要じゃない」と。空中を指さして、「この仏以外に別な仏様がおられるんですか」と、弟子に言っているわけですね。人間が刻んだ阿弥陀像を拝む必要はない、と。ここに本当の仏様がおられるんじゃないか、という。もう相当意識が朦朧とされていたと思うんですけれども、間もなく息を引き取られるわけですから。それをおそらく喜々としてお語りになったというのは、やはり人生八十年の念仏信仰の証がここに出ていると思うんですよ。
―― お弟子さんたちが当時のしきたりに則って形のある仏像を持ってきたけれども、「この仏、つまり自分にとっての仏というのはその形あるものではなくて」というふうに言っていたわけですね。
町田: そうなんですね。そういう仏様をずっと見つめて生活しておられたんじゃないか、と。娑婆世界には、実際には人が亡くなるとか、殺し合うとか、あるいは飢えてなくなっていくとか、大変恐ろしい地獄図が展開していたわけですが、それも正視しておられた。直視しておられた。それと同時に、その亡くなっていく人がみんな救い取られていく阿弥陀の姿を同時に見ておられた。そこに法然さんの宗教家としての実に深いものがあるように思います。
―― もう一つ臨終の時の言葉なんですが、
おほかた真身(しんしん)の仏をみたてまつりたまひけること、つねに侍りける。また御弟子とも、臨終のれう(用意)の御手に、五色のいとをかけて、このよしを申侍りければ、聖人これはおほやうのことのいはれぞ、かならずしもさるべからずとぞのたまひける。
(『御臨終日記』)
町田: 先ほどは、空中を指さして見ておられた仏様のことを、ここでは「真身の仏」と呼ばれているわけですが、そういうものをも見るのが日常化しておった、と。ですから、三尺の阿弥陀像を持ち込んで、お弟子さんたちが阿弥陀像と法然さんの指を五色の紐で結び付けよう、と。阿弥陀様が浄土を導くための紐なんですけれども、そういうことは世間の慣習としてやっているだけであって、決してお念仏の本質ではない、と。そういう儀礼的なことは要りません、と、ここでおっしゃっているわけですから、凄い自信ですよね。当時の、特に貴族は、それをして貰わないと、僧侶が臨終の床の周りに集まってお経をあげて、で、阿弥陀像と自分の指を五色の紐で結んでくれないと地獄に堕ちるという凄い恐怖を持っていたわけですから、そういう状況の中で、法然さんは、それは大凡の慣習としてやっていることだから、私には要りませんよ、と。もう既に救い取られている自分を自覚しておられたわけだから、それをここでおっしゃっているわけですよ。これも驚くべき発言ですよね。お若い時は、定善観という非常に激しい意識集中的な行をされて、間もなくそれを否定して、「そういう神秘的で不思議な体験は要りません。もう淡々とただ信仰を中心としたお念仏をしましょう」とおっしゃるわけですけれども、最期の最期になってやはり息を引き取る前に、真身の仏をご覧になっていたというのは、これは裏も表もない本当の信仰の人だった、という証拠になるお言葉だと思います。
―― お話がありましたように、法然という人は、比叡山にある間に大変な修行をされてこられた。だけれども、比叡山での修行をある意味では否定して、その後ずっと念仏、つまり専修念仏と言いますか、愚鈍念仏という言葉がありましたですね。
町田: それは後生の人が付けた言葉なんです。言ってみたら、ベートーヴェンに第九(だいく)というものがあって、「歓喜の歌」という交響曲がありますが、私は、法然さんはお念仏の中で歓喜の歌を聞かれたと思うんですよ。これは凄い歓びだったと思います。その歓びを人に生涯語り続けた人でしょう。第九の荘厳な音楽を念仏の中で聞かれていたようなものですよ。世の中は凄まじい状況でひっくり返っていた。その時に第九のような美しい歌を聞かれた。それで死の恐怖を克服されたわけでもあるわけですからね。これは法然さんの人格の深さというのは底知れないものがある。だからご自身が常にそういう歓喜の歌に感動しておられたわけだから、その感動の心を人に語っていたわけですよ。「お念仏をしなさいよ」とおっしゃる時は。だから人に伝わったわけですね。私自身が、母が亡くなる時、ちょうど当時、私、アメリカにおったんですが、たまたま日本に帰ってきた時に、母が私の胸の中で亡くなったんですが、その時私も何か素晴らしいシンフォニーを聞くような、そういう荘厳な感覚に陥ったことがあるんですが、まさに法然さんも、先ほどから引用したお言葉を見る限り、死は恐怖でなくて、まさに光り輝く阿弥陀のような荘厳なものである、と。それをビジュアルにも、音楽的にも感じておられたように思うんですよ。
―― しかも、その当時の疲弊した京都の人たちに対して、とにかくひたすら念仏を称えることによって極楽往生ができるんだ、というふうに説いたわけでしょう。それはどういうふうに迎え入れられたんでしょうかね。
町田: 法然さんは一切そういうふうに集中的なお念仏をする必要もないし、阿弥陀様を見るとか、そういう不思議な体験を持つことも必要じゃありません、と。安心して、ひたすら南無阿弥陀仏を称えなさい、と。もうあなたたちは救われているし、死んでも決して暗い闇に放り込まれることはありませんよ、ということを、ご自身が確信をしておられたから、必ず人に伝わるわけですよ。そして、禅宗では日常体と言いますが、当たり前の世界に戻りましょう、と。毎日凡夫として、俗人として、普通の生活を当たり前に生きていくことが、それが貴いんですよ、ということを、よく法然さんは、よく「生まれつきのまま」という言葉を繰り返しお遣いになったわけですが、「生まれつきのままお念仏しなさい」と。善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、性格をこれぽっちも変える必要はありません、と。
―― 悪人のままでいいんですか。
町田: ええ。性格をこれっぽっちも変える必要はありません、と。「あなたはあなたのままでお念仏しなさい」ということを、これからもよく引用することがあると思いますが、「生まれつきのまま」ということを頻繁におっしゃっています。ですから、そういう不思議体験を持つ必要はないし、毎日の生活を、男は男として、女は女として、営むところ、それが貴いんですよ、ということを常におっしゃっていたと思うんですよ。そういう生活を繰り返していくとこに、ごく自然に死の世界に移行していくだけですから、別にこの生の世界から死の世界にいくことは、とんでもないことではない、と。何の恐怖も要らない、と。もう自然に、昼が夜になるように、夜が昼になるように、そのように生きていきましょう、という呼び掛けをしておられたんだと思いますよ。
―― その死の恐怖を克服するためには、あれだけ法然自身は不思議な体験を潜り抜けてきて、で、そこへ辿り着いていった、ということなんでしょうね。
町田: そうですよ。前回もお話しましたけれども、時代も暗かった。彼の人生も暗かったわけですよね。だからそこで必死の行が始まるわけですよ。私は、「宗教は苦悩から始まる」と、以前から言っているわけですけれども、深い深い苦悩の淵に放り込まれた人ですよね。それは時代全体、そして彼の個人的な人生から見ても絶望の淵に投げ込まれた人です。その淵から這い上がってくるそのプロセスで、「山の念仏」をしたり、定善観という「観無量寿経」に書かれている非常に集中的な念仏の行をしたり、いろいろされてきたわけですけれども、最後は愚鈍念仏というか、ひたすら阿弥陀様を信じて、淡々とお念仏をしましょう、という、そこに非常に平明な世界に到達されたわけですよ。ですから彼の八十年という人生は、凄いドラマだ、と思うんですけれども、お父さんが敵の刃で殺されたというところから、劇的なドラマを生きてこられるわけですが、最後に非常に安心できる世界―仏教で「安楽の法門」という言葉があるんですが―安らかに楽しむのが仏教である、ということが、「安楽の法門」と言葉で表現されているわけですけれども、まさに最期の最期になって、「安楽の法門」というゴールに辿り着かれた実に見事な生き方をされた方じゃないかなと思うんですよ。
―― 絶望から希望へ、それから死から生へ、という、まさに百八十度の転換といってもいいですね。
町田: そうですよ。ですから現代もいろいろ困難な問題があって、とかく我々は悲観しがちなんですけれども、この法然さんの生き様―浄土宗の元祖とか、お念仏の普及者とか、そういうレベルから離れても、彼の生き様というのは非常にドラマチックで、現代人が学ぶべきこと―しぶとさというか、心の強さというか、それはもう宗教から離れても、法然さんから私たちが学び取るべきものだと思いますよ。現代人は―日本人だけじゃないと思いますけれども―これだけ物質的に恵まれた時代に生まれながら、とかく心が暮れがちである、と。まあ景気が良くなった、悪くなった、ということで一喜一憂するわけですよね。実に簡単に私たちの心は崩れてしまうわけですけれども、法然さんの生きた時代と、彼の個人的な人生体験を思えば、我々はもっともっと心を強くして逞しく生きていかなければいけないな、ということを、法然さんのことを学ばせて頂く度にそのように私は思いますね。
―― 法然の心を強くしたのは、一つは絶望ということなんでしょう。
町田: そうですね。
―― とんでもないトラウマを背負い込んでしまった。そこのところに法然の一番根っ子のところにある法然を、その後専修念仏の方に向かわせたエネルギーがそこに渦巻いていた、というふうな感じなのかなという気もするんですけれども。
町田: 前回、お父様の言葉を引用しましたよね。自分が息を引き取る前に、「たとい私が今敵の刃で傷ついて息絶えていくことになっても、決して人を恨んではいけない。これは私の私の業として起きたことだから人を恨んではいけない。すべてを人のせいにしてはいけない」ということをおっしゃるお父様の子どもですから、その時から実にしっかりした少年だった、と思います。
―― 今日のお話の纏めとして、ちょっと大上段に振りかぶりますけれども、宗教の究極の目標というか、それは一体どういうところにあるんですか。仏教と言ってもいいんですけれども。
町田: 宗教の究極の目標ですか。それは「楽しく生きる」ということでしょう。楽しく生きる、それに尽きますよ。この世の中は苦に充ちているけれども、それは苦と感じられるのはエゴがあるからですから、そのエゴを消していけばきっと楽しく思えるはずなんですよ。今息をしていること、今道を歩いていること、これは楽しい筈ですからね。ですから難しい経典を読むとか、大変禁欲的な行をするとこに、宗教の目的はなくって、まさに安楽の法門をくぐって、毎日の当たり前の生活、平々凡々たる生活をエンジョイするのが、宗教の究極の目的じゃないですか。そこには、学問があるとかないとか、社会的肩書きがあるとかないとか、信仰があるとかないとか、それすらも問われていないわけですよ。今日朝起きて顔を洗うところから、夜床に就いて眠るところまで、もし心にかかる雲がなかったら一刻一刻楽しい筈なんですよ。それが私たちできていないわけですから、大いに反省すべきじゃないですか。
―― どうすれば、それは一人ひとりが見つけるしかないことだろうと思いますけれども。
町田: それは初回に申しましたけれども、今という瞬間に心をおいていく、それしかないです。
―― そういえば、最初の時におっしゃいましたですね。今が大事なんだから、今を大事にする。
町田: そうですね。念仏の「念」というのは、「今の心」と書くように、何か特殊なことをする必要はなくって、今お食事しているなら、お食事をしましょう、と。今道を歩いているなら、道を歩きましょう、と。そこに心をおくことによって、自我の意識が消えていくわけですから、何気なく散歩しても、何気なくお茶を頂いても、それが楽しくなってくるのが究極の目標じゃないですか。それは私自身に言い聞かせていることですよ。
―― どうも今日はありがとうございました。
町田: ありがとうございました。
これは、平成二十一年七月十九日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものである