東京外国語大学教授 町田宗風
ききて 草柳隆三アナウンサー
―― 「法然を語る」の三回目です。前回は法然が生きた時代的な背景ということを中心にお話をして頂いたんですが、今回三回目はその時代法然の心の内で何が起こっていたのか。法然の内面的な葛藤ということについて、お話を伺ってまいります。お話はいつものように広島大学大学院教授町田宗鳳さんです。今回もよろしくお願い致します。
町田: こちらこそ。
―― 前回のおさらいをほんのちょっとして、今回のテーマに入っていきたいと思うんですが、時代的な背景ということでお話頂いたんですが、ほんとにあの時代というのはもの凄く激しい動きがあったんですね。
町田: そうですね。日本の歴史の中で十二世紀末から十三世紀にかけては一番混沌とした時代、古来から中世への過渡期であって、権力のありかというものも転々とした、そういう混乱の時代ですね。非常に暗い時代、闇の深い時に、法然さんは生まれ落ちて、その中で生き抜いた方である、と。そのことを理解しておくべきだ、というお話を前回させて頂いたわけですね。
―― その辺の動きというのは、政治的にも宗教界でもあらゆるところでガラガラ動いていった時代だったんでしょうか。
町田: そうですね。政治的にもですが、やはり宗教界も一種の制度疲労が起きまして、奈良時代から連綿と続いていた仏教の伝統が、人の心に染み渡ることがだんだんなくなってしまって、時代そのものがいってみれば大きなトラウマを抱えていたのに、人々はどこへ救いを求めていいかわからない。仏教というものがしっかりあって、その救いの道をしっかり示されていたら、どれだけ社会的な状況が混乱していても、人々はそれほど悲観する必要はなかったんですけども、かえって地獄とか怨霊(おんりょう)とか、あるいは末法という考えを、人々は吹き込まれて、余計に彼らの絶望が深まった、という時代だったわけですね。
―― しかもあの時代はけっこう天変地異というのか、自然の災害も随分京都を中心にしたあの辺は凄かったらしいですね。
町田: そうですよ。大火があり、台風があり、そして養和(ようわ)の大飢饉というものが起きた。これは『方丈記』に書かれていることですけれども、「人が人を食べることもあった」と。よほど飢餓が深刻な状態だったんでしょうね。そういう時代に生きた「危機の時代の危機の宗教家であった」というふうに、私は法然さんのことをとらえています。平時の宗教家じゃないんですね。有事の宗教家。ですから、相当切羽詰まったところで生まれてきた革命的な画期的な宗教思想となったわけですね。
―― そして今回は、その法然の個人にスポットを当てて、ということなんですけれども、まず生まれ生い立ちは、どうだったんですか。
町田: 法然さんというのは、今の岡山ですね、美作(みまさか)の国の久米郡(くめごおり)というところの地方の侍の嫡男(ちゃくなん)としてお生まれになったわけですね。ですから当時としては、武士というのは新興の社会階層で、これからのし上がってくる非常に勢いを持つ社会階層のお家にお生まれになった、というふうに私は考えているんです。
―― 地方の豪族なんですか。
町田: そうですね。押領使(おうりょうし)と言って、いってみれば地方の警察官のお家にお生まれになった。でも、私は非常に大事なことだと思っているんですが、法然さんのご両親には、なかなかお子様が生まれなかった。子が授からなかった、という事情があって、ご夫婦で―法然さんのご両親ですけれども、地元の観音様に何度もお詣りして、やっと授かったお子さんが法然上人だったわけですよ。ですから、それは目に入れても痛くないぐらい、特に武家の長男ですから非常に期待されてお生まれになって、しかもふんだんな親の愛情をお受けになって、お育ちになったと思いますよ。一族郎党の期待を一身に担って、漆間家(うるまけ)の将来を背負っていく子どもとして非常に大事に育てられた、と思っています。
―― ところがあの時代ですから、中央の平家―武家の台頭があって、京都を中心にして、その後戦乱の渦に巻き込まれていくわけでしょう。それは中央だけではなくて、地方だって多分そうだったんだろう、と思うんですが。
町田: そうですね。やはり中央から送り込まれた役人がいるわけですから、政治的な緊張は高まっていたと思うんですよ。ここで私が一つ注目しているのは、精神分析学者のエリクソン(Erik Homburger Erikson:1902-1994)という方がおられたんですが、この方が、人間の人生を八つの周期に分けておられるんですが、それは「ライフサイクル説(人生周期説)」というふうに言われておりますが、その八つの段階の最初に出てくるのが、「乳児期」なんです。その後、「幼児期」「児童期」「学童期」「青年期」「成人期」「壮年期」「老年期」と、人間の心理学的な成熟度を段階的に分けて説明されているんです。昔から日本で「三つの魂百まで」と言われるように、このエリクソンという方は「幼少期」の生い立ちが非常に大切である、と。どういう環境で、どういう境遇で、その子が育ったかは、その子の一生を決めてしまうぐらい大事な時期である、と。そういう観点からみれば、法然さんというのは、幼少期、非常に豊かな親の愛情に包まれて非常に大切なものを自己の内にお育てになった、と思うんですよ。エリクソンさんは最初の「乳児期」あるいは「幼児期」に、人間は何を獲得するか、というと、英語では「ベーシック・トラスト(基本的信頼)」と言われておりますが、人間が人間を信ずる力、あるいは人間が自分を信じる力、自分に対する尊厳とか自信とか、そういう最初の種を植え付けられる時が、八つの周期のうちの第一周期である、と。「基本的信頼」ですね。ですから、法然さんは九歳の時に、お父様が目の前で敵に殺される、という大変な悲劇を体験するわけですが、その九年間に、私はしっかりとエリクソンのいう「基本的信頼」というものを心の内にお育てになっていた、と。で、これから法然の生涯を徐々にみていくことになるわけですけれども、彼の他者に対する優しさとか、思いやりとか、そういうものはしっかりとこの幼少期に植え付けられていたんじゃないかな、と、そのように私は感じています。
―― けれども、法然は九つの時に父親が非業の死を遂げて殺されてしまったというのは、見ているわけですか。
町田: ええ。伝記によりますと、その現場に居合わせた。お父さんは押領使で、警察官のような役割を担っておられたんですが、中央から送られた荘園預所(しょうえんあずかりどころ)の明石源内武者定明(あかしのげんないむしゃさだあきら)という人に夜襲を受けて、家族の前で法然のお父様である漆間時国(うるまときくに)が命を落とした。だから法然さんは血にまみれた自分のお父さん、しかもそれほど今まで深い愛情を持って自分を育ててくれた父の死を目の当たりにしたわけですから、その心の痛手、現在でいうトラウマというものは計り知れないものがあったと思うんです。で、法然の専修念仏というのは、「如何に死の恐怖を乗り越えるか。死をどう受け止めていくか」というのが、大きなテーマになっているわけですが、私はこの九歳で彼の身の上に起きたことが、死を見つめる最初のきっかけになったんじゃないかな、と思っています。
―― その時に父親が残した遺言があるので、それをちょっと読んでみたいと思います。
汝(なんじ)、さらに会稽(かいけい)の恥をおもひ、敵人(あたびと)をうらむる事なかれ、これ偏(ひとえ)に先世(せんぜ)の宿業也(しゅくごうなり)。もし遺恨をむすばば、そのあだ世々(よよ)につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ、いゑを出で、我菩提(わがぼだい)をとぶらひ、みづからが解脱(げだつ)を求(もとむ)には。
(『四十八巻伝』)
―― これはどういうことを言っていますか。
町田: 素晴らしい言葉ですよね。「会稽(かいけい)の恥」というのは、中国の春秋時代の呉と越の国の出来事で、日本でいえば忠臣蔵のような話で、
―― 最後には恥をそそぐという話ですか。
町田: そういうお話なんですけれども、法然のお父様は、決して私を殺(あや)めた人間を恨んではならない、と。こういうことが起きてしまったのは、私自身の前世からの因縁によるものである、と。もしお前が私のこの出来事を恨んで敵をまた殺害しようと、そういうことを考えてしまうと、怨みが怨みを呼んで、止(とど)めもなく怨みのサイクルが始まってしまう。ですからそんなことを考えずに、これが起きてしまったのは私自身の原因である、と。それよりも「早く俗をのがれ、家を出で」とおっしゃっていることは、出家をしてほしい、と。出家をしてちゃんと菩提を成就して、私の菩提をとぶらってほしい。あなたが解脱してくれたら私が救われるんである、と。このようなことをおっしゃったと、伝記には伝わっているわけですが、これが史実とすれば凄いことですね。これは先ほど申しましたけれども、自分の肉親が他者の手によって殺められるというのは、人間の怨みの中でももっとも深いものとなりうるわけですが、その被害者であるご本人から、加害者を恨んではいけない、と。これは私にも原因があるんだ、と。それよりもこの世俗から離れて、解脱をしてほしい、と。これは凄いメッセージを、実の父親から受け取ったことになりますね。ですから漆間家はこれをきっかけに途絶えていくわけですけれども、法然は武家の嫡男として受ける筈だった家督を受けることがなくなってしまったわけですが、その一方で素晴らしい精神的な遺産をお父さんからこの瞬間に受け継いだことになりますね。だから法然さんの人格の深さもあるし、思想の深さというのは、一代のものではないな、と。お父さんがここまでのことを言える。自分がこれから息絶えるという瞬間に、しかも他者から受けた傷で、おそらくその現場では血も流れていたと思うんですが、そういう瞬間にこういう深い言葉を吐ける父であった、と。やはりこの父ありて法然という子ありき、という気がしますね。
―― 「この親にしてこの子ありき」という。しかもこれを聞いた時の法然というのはまだ九歳でしょう。
町田: そうですね。ですから現場のイメージというのは一生拭いきれるものじゃなかったでしょうね。ですからこれから生涯かけて精神的な苦労が始まるわけですけども、念仏の力によって死も否定できないイメージを消していく。その原点にあったのがやはり父の死の姿だと思うんですよ。
―― 一回目のこの時間に、町田さんは、「法然は思想の革命家」という言い方をされましたですね。その法然の思想を作っていったのは、今まさにお話があった幼児期の体験ということが一番根っ子のところにある、と。これからスタートしている、ということなんでしょうかね。
町田: ええ。そして彼が地方の土豪の嫡男であったということは、かなり大きな意味があるんで、中央の生まれでなく、また貴族の生まれでなくて、武士の血を引いていた。ここに、新しい精神界を開拓するだけの、何か進取の気性というものがあった、と思うんですよ。ですからそれ以前の宗教家にはなかったような合理主義、あるいは個人主義というものを、生まれながら身に付けておられたように私は思います。
―― その合理主義というのは何ですか?
町田: それまでは迷信が深く信じられていたわけですからね。加持祈祷していろんな不思議な現象を起こすということを仏教僧、密教僧なんかに期待していたわけですけれども、彼はそういう現世利益的な加持祈祷にはまったく関心事においていなかったように思います。やはり行をするというのはどういう意味があるのか、かなり合理的な観点でみておられたように思いますよ。
―― そういう思いを固めていったというのは、もうちょっと後になってからのことなんでしょうけれども、そういう精神力の強さというんでしょうか、それは今おっしゃっるように自分が権力側というか、それまでの権勢側にいたんではなくて、むしろその階級からは疎んじられていた。むしろそこの出身だということになんかあるでしょうか。
町田: そうですね。やはり武士というのは、最後に頼りになるのは自分の力、あるいは自分の判断力ですからね。やはり門閥の貴族だと、家柄が自分を守ってくれる。律令制という社会制度が自分を守ってくれる。そういう立場に置かれていましたからね。あまり生まれが尊い方は保守主義に趨ってしまうと思うんですが、これから自分の社会的地位を確立しなければいけない武家階級にとっては、自分ですべてを勝ち取っていかなければいけないわけですから、やはり実力が問われる。そこに個人主義的なものの考え方というのが芽生えてきたように思いますよ。
―― 今おっしゃる法然の合理主義を端的に示しているという言葉がありますのでお読み致します。
又宿業(またしゅくごう)かぎりありて、受くべからん病は、いかなるもろもろの神仏にいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりて病もやみ、いのちも延(のび)る事あらば、たれかは一人として病み死ぬる人あらん。
(『浄土宗略抄』)
〈人間には与えられている運命というものがあって、病気を治してほしいと、どれだけ神仏に祈ったところで同じなのだ。祈って、病気が治ったり、寿命が延びたりする事があれば、誰一人として、病気で死ぬ人がないはずだ〉
町田: これは凄いですね。これはほんとに当時としては画期的な声明文だった、と、私は思っています。神仏に祈って病気が治る、あるいは寿命が延びる、そんなことはあり得ない、と。それまでの人はみんな神仏に手を合わすというのは、病気を治してほしいとか、寿命を延ばしてほしい、という思いで一心に手を合わせていたわけですから、これはそれとまったく反対で、神仏に祈って病気が治ったり、寿命が延びたら、誰も知りませんよ、と言っているわけですから、一種現代合理主義に通ずるような非常にプラグマティック(pragmatic:実践的な、実用主義の)なものの考え方をはっきりここで証明していますよね。
―― この冒頭のところは、人にはそれぞれ与えられている運命があるんだ、というふうなことなんでしょうか。
町田: そうですね。ですから物事というのはそれなりの必然性で動いているんだから、それを神・仏に一生懸命祈っても、そんなに物事はたやすく変わらない、と。それよりももっとも大事なことは、自分がほんとに救われていくことではないか、と。それまでの仏教はどうしても加持祈祷によって病気を治したり、寿命を延ばしたり、あるいは国家の政治の様相を変えよう、と。そういう思いで仏教にみなさん入っていたわけですから、そういうことは関係ありません、と。自分が如何にこの世を生きていくのか、あるいはこの世を終えていくのか、それが問題である、と。ここには凄い合理主義と個人主義が滲み出ているように、私は思うんです。
―― でもこういう言い方というのは旧勢力からみれば、何をこしゃくな、という感じでしょうね。
町田: そうですね。当初法然さんというのは、南都北嶺の寺院から、「黒い衣を着た非常に位の低いお坊さんが風変わりなことを言っている」というふうに思われていたわけですから、後に影響力が急速に拡大して、彼らもビックリしたわけです。最初は非常に毛色の変わった宗教家として冷たい目線で見られていたでしょうね。
―― お書きになったガイドブックの中には、「この法然の合理主義というのは、後の戦国時代の信長に通ずるものだ」というふうに言っていらっしゃいますね。
町田: それは時代はちょっと違うんですけども、法然さんは十三世紀の人で、織田信長は十六世紀の方ですけれども、やはり二人に共通するものは合理主義というか、迷信を信じないというか、そして個人の実力で物事の決着を付けていく、という生きる姿勢が非常に似ているように思うんですよ。私は自分の本の中に『野生の哲学』というのがあるんですが、そこで、「日本の近代を最初に開いたのは信長である」というようなことを書いたことがあるんですが、それは中世というのはヨーロッパでも日本でもそうなんですけれども、宗教的な権威が圧倒的な力を持っている。その背景には神への畏れというものがあるんですけれども、ヨーロッパなら教会、日本なら南都北嶺の大寺院、こういうものはちょっと挑戦不可能なぐらい大きな政治力と経済力を持っている。そして人心を信仰のほうから牛耳っていく、というようなところがあるんですよ。中世というのは、「中世の蒙昧」という言葉がありますけれども、宗教が圧倒的な力を持っている時代ですけれども、信長というのは無神論者とは言えませんけれども、かなり反宗教的な考えを持っていたわけですからね。例えば安土城を造る時に、京都の石仏を石垣に使ったと言われている。実際に使ったわけですけれども、全然神・仏を畏れないという面がありましたね。ちょっと極端な面があるんですけれども、信長というような強いリーダーシップを持った合理主義者が出てくることによって、やっと日本というのは中世にピリオドを打つことができた。それから近世が始まって明治までいって欧米の列強と競うことになるわけですけれども、あれが少しでも遅れていたら、日本というのは欧米、先進国の植民地になっていた可能性もある、と、私は考えているんです。ですから法然さんは「思想の革命家」としたら、信長は「政治の革命家」、日本の政治のあり方を根本的に変えてしまった。そういう意味で時間的な誤差はあるわけですけれども、私は法然さんと織田信長というのは何か一脈通じるものを持っている。しかも二人ともあまり都の中心的なところから出てきた人じゃなしに、法然さんは岡山の山深い里から出て来られた武士の出身である。信長の方も尾張の、どちらかといえば弱小の小さな大名のお家から出てきた。そういうところでも似通っていまして、やはり時代を変えるような強くて新しいエネルギーを持っている人は、何かそういう生まれた境遇というものが大きく影響しているんじゃないかなと、私は考えています。どちらも一種の危機的状況ですね。一つ間違ったら自分の家が潰されるかも知れない。周りにいっぱい力を持つ敵がいるわけですから、常に危機的な状況の中で生まれ育った。そういう危機感が彼らの新しいメンタリティ(精神性)を育てたんじゃないかな、と、私は考えています。
―― もう少し精神性を育てた法然の内面に入っていって、ちょっと時代を少し前に戻して、法然は、父親が非業の死を遂げた後に比叡山にいくわけでしょう。
町田: そうですね。
―― その辺りのところからもう少しお話をして頂きたいんですが、比叡山に行ったのは何歳の頃ですか。
町田: 十三歳ですね。ですから九歳で即座に母方の叔父さんに当たる観覚(かんがく)という方のお寺に送り込まれた。
―― それは岡山ですね。
町田: そうです。美作よりもさらに山間部に入ったところにあるお寺なんですがね。これはおそらく彼の身の安全を保つために入ったと思うんです。やはりお家断絶をしなければ敵にとっては後々問題となりますから、その家の長男であった法然は―勢至丸(せいしまる)と呼ばれていたんですけども―命を狙われたと思うんですよね。ですから即座にお寺に送り込まれた。その時のお母さんがどうだったか、というのははっきりしないんですけれども、まあいろんな説がありますが、長く生きられたという説もありますけれども、おそらく当時の武家の慣習から言って、自害された可能性もありますし、間もなくして亡くなられた、という話も伝わっていますからね。父とは明らかに死別をしているわけですけれども、お母さんとも生き別れを味わっているわけですね。九歳でお寺に送り込まれてから、母との縁も切れてしまう。そして十三歳まで菩提寺というお寺に預けられていて、小僧生活をする。
―― まだ出家はしていないわけですね。
町田: 正式にはしておられなくて、ただ最初のお師匠さんである観覚という菩提寺の住職が、法然さんの頭脳の明晰さに驚いて、お経を教えてもすぐに覚えてしまうような非常に聡明な少年だったんでしょう。ですから自分の手元に置いておくのは勿体ない、と。この子は将来性のある潜在的な能力を持った子だということにお気づきになって、彼が十三歳になった時に、比叡山に送り込まれるわけですね。
―― 比叡山延暦寺というのは、当時の最高学府なわけですね。
町田: そうですよ。それは仏教の修行をする上でも、あるいは学問を積む上でも、取り敢えず比叡山に送り込めば間違いがないというぐらいに、当時の仏教の中心地だったわけですよ。その時にお師匠さんの観覚が、彼の友人であった比叡山の北谷(きただに)にいた源光(げんこう)という僧侶に法然さんを送り込むわけですが、非常に面白い紹介状を持たせたと伝わっていますね。それが「聖文殊像一躯進上(しょうもんじゅぞういったいしんじょう)」と。これは文殊菩薩を一体、観覚が源光にプレゼントします、という簡単な紹介状を持たせて、法然さんに山に向かわせた、と。これが事実としたら非常にユーモアのある方だったようですね。しかし十三歳の少年のことを文殊菩薩に譬えているわけですから、それほど聡明な方だったんでしょうね。比叡山に上がってから法然さんは「智慧第一の法然坊」と呼ばれるようになるわけですけれども、その知的な輝きというのはもう九歳の時からずっと一貫してあったように思いますね。
―― 当時の延暦寺のお坊さん、学僧も含めて、出身というのはまだ貴族階級の恵まれた人たちの方が多かったんでしょうね。
町田: そうなんですよ。十三歳で比叡山に入りますね。だけどもそこの最初の師匠である源光もこの子は伸びる、と。もっともっと学問的に研鑽させれば、もっともっと伸びるということで、当時学僧としてもっとも馬の合った皇円(こうえん)という方に預けるわけですよ。皇円というのは、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』という日本で最初の仏教文化史に当たる本を書かれた方なんですが、その方が『四十八巻伝(しじゅうはっかんでん)』という伝記に記されている言葉なんですけれども、法然に向かって、「学道をつとめ大業(たいぎょう)をとげて、円宗(えんしゅう)の棟梁(とうりょう)となり給へ」と。円宗の棟梁というのは、天台座主になりなさい、と。あなたはこれから一生懸命勉強して、仏典の知識を積んで、将来は天台宗の頂点に立ちなさい。座主になりなさい、というふうに、皇円という素晴らしい学僧が、十五歳の少年に向かって言っているわけですよ。だけども、現実はこれはあり得ないシナリオです。これはその時もその後も天台宗の座主という最高の地位は摂政関白家から出た貴族の子息にしか与えられなかった地位ですから、どれだけ彼の知的な聡明さが周りの人に評価されていたとしても、制度の中で彼が立身出世する可能性はほとんどなかった、と考えていいでしょうね。
―― お山の上は世俗の力関係とはまたちょっと別だったわけですね。
町田: いや、まさに世俗の階級制度がお山の上までコピーされていたわけですから、貴族の子息は将来の出世コースが開いているわけですけれども、武士の息子ではそれほど前途洋々ではなかった。おそらく私の方から想像することですが、虐めもあったんじゃないですか。やはり寺院というのは閉鎖社会ですから、けっこう虐めもあったように思いますよ。
―― 結局延暦寺には何年いたことになるわけですか。
町田: まるまる三十年ですけれども、十五歳で皇円の弟子になるんですが、もう三年すると十八歳で、黒谷―ずっと根本中堂からさらに奥の方にあった深い谷を黒谷というんですが―そこの西塔別所青龍寺に移っていますよ、十八歳で。で、青龍寺というのは念仏聖(ひじり)が集まる別所であった、と。延暦寺の構造の中では隅っこのほうですよ。そこにお移りになった。おそらく延暦寺中心部の権力闘争、僧兵も非常に活発に動いていたわけだし、僧侶間の権力闘争というものを目の当たりにされて、随分嫌な思いをされたんでしょう。ですから一種の隠遁の場所であった黒谷に十八にして移っておられるわけですね。
―― そこでの勉強ぶりというのはもの凄かったそうですね。
町田: 一切経というのは五千四十八巻お経があるんですが、それを少なくとも三回はお読みになったと言われています。場合によってはもっとお読みになっていると思うんですが、必死のお思いだったんじゃないですか。最初にお話したように、お父さんの死、それも非常に痛々しい死を目の当たりにして、大きな心の傷を背負っておられたわけですから―トラウマをですね―その決着を付けたかったわけですよ。ですから単なる知識を積むための学問ではなくて、人生の回答がこのお経の中にあるんだ、という気持で必死になって何度もお読みになった。そのように私は想像しています。
―― そして、どうだったんですか。
町田: 現代でも変わらないことですが、何でも真剣に取り組む強い求道心を持って、目標に向かって邁進すると、待っているのは必ず挫折なんですよ。真剣に求めれば求めるほど、どこかで挫折感を味わうことになるわけですね。ですから秀才と言われていた法然さんも、勉強すればするほど人生の答えが見つからない、という焦りの中で深い絶望に陥っていかれるわけですよ。
―― また次の言葉を紹介したいんですけれども、こんなふうに法然は言っています。
かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん。ここにわがごときは、すでに戒定慧(かいじょうえ)の三学のうつは物にあらず、この三学のほかにわが心に相応する法門ありや。わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらふしに、おしふる人もなく、しめすともがらもなし。
(『聖光上人伝説の詞』)
〈悲しいことだ、実に悲しいことだ。どうしてよいのか、全く分からない。とうてい自分のような者は、戒律・禅定・智慧という仏教の根本となっている三つの要素さえ、身につけられる器ではない。そのような愚かな自分にも、ふさわしい教えがあるのか、自分にもできる修行があるのかと、あまたの知識人や学僧たちに尋ねまわったが、誰も何も教えてくれないし、親しい人たちも押し黙ったままだ。〉
―― 随分切ない言葉ですね。
町田: 血を吐くような絶叫の声ですね。これは黒谷の谷中に響いたんじゃないかと思われるぐらい絶望の底から出てきた言葉ですね。真面目に学問もし、おそらくそこは念仏の別所ですから、お念仏にも励んでおられたわけですけれども、自分が求める答えが見つからない。ですから二度も繰り返して、「かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん」と。どうしたらいいのか、と。こういう叫び声をあげておられる。「戒定慧(かいじょうえ)」というのは「戒律」、「禅定」―精神集中のことですけども―それから「智慧」、こういうものが仏教の根本にあるのに、自分はそれを身に付ける器ではない、と。ですからこの戒定慧以外の仏教の教えがあるんじゃないか、と。それで他の道を求めようという気持になられるわけですけれども、その最後の「おしふる人もなく、しめすともがらもなし」というところも辛いところですよね。叡空(えいくう)というお師匠さんがおられたわけですけれども、自分が求めていることに答えを与えてくださるようなお師匠さんじゃなかったんでしょう。そして、仲間にも自分の心の深いところにある悩みを本当に理解してくれる人がいない。まったく孤立の中で絶望的な思いで青春時代を送っておられるということが、この下りの中から想像できますね。結局彼は二十四歳の時に、当時もう十二年経っておりますから―籠山十二年ですから―比叡山をいったん下りて、京都や奈良におられる立派な学僧たちを訪ね歩いて、比叡山にないものを他に見出すことができるんじゃないか、と。そういう思いで街に―一時ですけれども―下って行かれるわけですよ。ほんの短期間の下山だったと思うんですけれども、そこで目にされたことは、想像もしなかったことだと思うんですよ。十数年経ってから山の生活しか知らなかった人が、京の都、あるいは奈良の街に行って、いろいろ師匠を訪ねて歩くわけですけれども、そこで見たことはおそらく想像もしなかったような人間の絶望的な状況―アジール(統治権が及ばない地域のこと)という言葉があるんですが、これは権力が及ばない混沌とした状況のことをアジール、あるいは空間をアジールというんですが、まさにアジールの最中に自分の身を曝すことによって、ハッと思われたと思うんですよ。こういう人間が苦しみにうごめいている時に、宗教家は何ができるんであろうか、と。それまで黒谷で必死で自分の個人的な問題と四つに組んで闘っておられたわけだけども、いったん山から下りて、街で人間の生の苦しみの姿を見た時に、私はこれでいいんだろうか、と。出家としてこういう人たちとどのように関わっていったらいいんだろうか、と。やはり青年らしい純粋な思いで大きな疑問、あるいはある意味ではもっと苦しみが増したかも知れませんね。自分も、自分の問題を解決していないけれども、もっともっと苦しんでいる人がいるんだ、と。前回お話した保元(ほうげん)の乱(一一五六年)というのも、ちょうど彼が南都(奈良の都)に遊学した時に起きていますから、人が殺し合う姿、血を流す姿、そして飢饉に苦しみ姿、『方丈記』にあるように、橋の下で人肉を食うような姿、そういうものを目の当たりにされて大変大きな問題意識をこの時に抱えられた、と思うんです。
―― そして四十三歳の時に、完全に比叡山を下りていくわけですね。
町田: そうですね。四十三歳で黒谷を去って、京の街に下りる時には、個人的な決着は付いていたと思うんですね。念仏の本質というものを体験して、救いはここにある、ということを確信しておられたと思うんですよ。で、それまでは、シェークスピアの『ハムレット』の言葉にあります「生きるか、死ぬか、それが問題である」ということをずっと悩んでおられたんだけれども、この凄まじい葛藤に一つの決着を見出された上で下山の決意だったと思うんですよ。ところが街に下りて見て、さらに驚くわけですよ。「生きるか、死ぬか、それが問題である」というのは、自分の問題だったけれども、今は自分の問題じゃなしに、人々の問題。人々の問題が自分の問題になってくるわけです。ここで彼の葛藤の資質が変わるわけですね。それまではあくまでも自分の悩みだったけれども、今度は他者の悩みが自分の悩みになっていく。『維摩経(ゆいまぎょう)』の中に「衆生病むゆえに、われ病む」という維摩詰(ゆいまきつ)の言葉があるんですけれども、人々が心の病を抱えている限り、私はこの自分の病気からも回復することはできない、と。人々が悩んでいる限り私も悩む、ということなんですけれども、ちょうど同じような境地になられたと思うんですよ。ですから、山から街に下りるというのは精神的な化学反応を彼の内で起こしたと思うんです。そこで見た凄まじい現状というのは大変深刻なテーマを彼に突き付けることになったと思います。
―― そうすると、比叡山にいた頃の法然の葛藤の本質というのは、自分のほうに向かっていたのが、それが山を下りて、まったく違う、今おっしゃるような、つまり自分一人の救済ではなくて、もっと大事なことは宗教家の使命としてある、私の使命としてある、ということになっていくわけですか。
町田: そうですね。物理的にも男性の僧侶の集団から巷に行けばいろんな人がいるわけですから、大変驚くことがあったと思うんですよ。次元は違うんですけれども、私も二十年禅寺で過ごしてからアメリカに留学しました時に、私の目の前に開けた世界というのは本当に想像を絶するようなものがありましたからね。僧侶の生活から一人で学生として生きていくというのは、すべてにおいて異なるわけで、私はそれまでに洋服も着たことなかったし、髪の毛も伸ばしたこともなかったわけですし、お金の心配もしたこともないですから―お坊さんというのはお布施で生活できますからね。私なりの山から街への体験はありますけれども、それよりもっと深い次元で、法然さんは味あわれたと思いますよ。それなりに自信を持って念仏に関しては街に下りられたと思うんですけれども、まだ自分が体験したことが通用するのかどうか。そういう不安があったと思うんですよ。称名念仏ですね―声にあげる念仏。これでよいという確信をお持ちになっていたけれども、それは自分の問題を解決するのは有効だけれども、人を救う力があるかどうか。そこに確たるものがなかった。
―― どうやってそれを法然は確かめていったわけですか。
町田: そこで非常に大事な出会いがありまして、遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)(1139-1177)という彼よりも少し若いお坊さんにお会いになるわけですね。彼の有名な言葉があります。
浄土の法門と、遊蓮房とにあへるこそ、人界(にんがい)の生をうけたる思出(おもいで)にては侍(べ)れ。
町田: これは、浄土の教えと遊蓮房という人物に出会ったことが人生最大事の出来事である、とおっしゃっているのだから、よっぽどのことだったんでしょう。
―― この遊蓮房という人はどういう人だったんですか?
町田: この人も武士の血を引いて念仏の世界に入った人らしいんですが、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の近臣だったと言われているんです。念仏のやり方を法然さんから教えてもらうんですね。それで彼がやるようにやったら、やはり法然さんと同じような念仏体験を持つことになって、非常に共感をするわけですよ。間もなくお亡くなりになるんですけれども、法然さんは遊蓮房の臨終にも立ち会っている。しかし法然に大変大きな自信を与えるきっかけになった人物です。これをきっかけに法然は西山(にしやま)の広谷(ひろだに)から東山の吉水(よしみず)に移って念仏を漸く人に説き始めるわけです。ですから彼にとっては、この出会いというのは決定的であったと考えます。私はこの話から、法然さんのみならず現代人の我々にとっても、出会いということは大変重くて深い意味を持っていると思うんですよね。我々の人生を切り開いてくれるのは学歴でもなければ、才能でもない。人との出会いである、と。若い時なら進学や就職の時に誰に出会っているか。結婚の時に誰に出会っているか。それによって人生は大きく展開してくるわけですけども、人間にとって出会いというものは素晴らしい宝物になり得る、と。
―― 良い出会いの数のほど豊かになりますよね。
町田: そうなんですよ。良い出会いを引き寄せることができるような自分でいたい、と。この法然さんと遊蓮房のエピソードを見ても、出会いというのは何よりも大切なんじゃないかな、というふうに感じますね。
―― ただ待っていてもダメなような気がしますけども。
町田: そうですよ。私はよく言うんですが、法然さんのお念仏というのは、阿弥陀様に「救ってくれ、救ってくれ」という嘆願の念仏じゃなしに、「有り難うございます」という報恩の念仏だ。もう救われている自分を見つけておられるわけですから、有り難いという気持でお念仏を唱えておられた。それは報恩の念仏ですね。そういう思いが良い出会いを呼び寄せたんじゃないかなと、私は考えています。
―― ガイドブックの中には出会いの例として、有名なヘレン・ケラー(アメリカの女流教育家。二歳の時盲聾唖となったが力行して大学を卒業、身体障害者の援助に尽くす:1880-1968)の話が出ておりましたけれども。
町田: そうですね。ヘレン・ケラーもサリバン女史という女性に出会わなければ、あそこまで世界的に活躍できる人物になり得なかったわけですから、誰にとっても出会いというのは大変大きな意味を持つと思うんですよ。ですから法然と遊蓮房の出会いというのは十三世紀に起きたことですけれども、非常に現代的な意味を持っていると思いますよ。
―― しかし、今日のお話を伺っておりますと、法然が比叡山で過ごした二十数年間の間の絶望というのは、またその絶望を感じなければスタートがないということだろうと思うんですけれども、ちょっと想像に余りあるぐらいの凄さだったんでしょうね、きっと。
町田: 深い絶望の谷に運命的に突き落とされた方ですよ。やはり父の死から始まり、比叡山の体験、そして京の街で見たこと、今から想像もできない厳しい時代に生きられたわけですからね。ほんとに深い谷に突き落とされて、そこから這い上がってきた方ですね。その這い上がったところに見出されてきたのが法然の念仏なんですよ。形だけの念仏ではなくて、根こそぎ人間を救い取る力を持っているお念仏なんです。その発見は絶望の淵に突き落とされた人間でないと見つからない。キルケゴール(1813-1855)に「死にいたる病」という考えがあるんですけれども、これは死ぬに死ねないぐらいの絶望ですね。死というチョイスも奪われているほどの厳しい状況を、キルケゴールは「死にいたる病」と呼んだんですけれども、法然の生きた時代そのものも、社会も死にいたる病に罹っていたし、法然も個人として死にいたる病に罹っていた。そこから這い上がってきた。そこに法然の宗教家としての実力が養われた、と思うんですよ。キルケゴールが面白いことを言っているんですが、友人への手紙の中で、
私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために死ねるような真理を発見することが必要なのだ
町田: とおっしゃっているわけですけれども、まさに法然さんは、このために生きてそのために死ぬような真理としての念仏を発見されたんじゃないか、と。ですからこのキルケゴールの死にいたる病というのは非常に面白いですね。
―― 今日はどうもありがとうございました。
町田: こちらこそ有り難うございました。
これは、平成二十一年六月二十一日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものである