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こころの内に広がる宝−「無意識の力」とつながると、人生の風景は大きく変わっていく。私たちは道を歩くにも、食事をするにも、ほとんどのことを「無意識」のうちに実行できています。それなのに、「意識」の力だけで、大真面目に頑張りすぎていないでしょうか。人間の内面には、「無意識」という広大な宇宙が広がっていて・・・<<続きを見る>>、私たちが頭で考えるよりもはるかに立派な仕事をやりこなしてくれます。それはどれだけ掘っても掘り尽くせない、金の鉱脈のようなものです。
本書では、偉人のエピソードや著者の体験談を交えつつ、仏教を中心にキリスト教・心理学・哲学・スポーツなど多角的な見地から、「無意識」の正体に迫ります。無意識の力を呼び覚ますカギとなる坐禅、声の力、少食・断食など、僧侶ならではの心身コントロール術も紹介。「無意識の力」にゆだねれば、人生はもっと気楽に、そして、より創造的なものになっていくのです。
*本書はNHKテキスト『こころをよむ 無意識との対話 身心を見つめなおす』を単行本化したものです。
【構成】
序章 村上春樹とイチローの共通点
第1章 無意識はどう考えられてきたか
第2章 盤珪(ばんけい)禅師が説いた「不生の仏心」
第3章 こころの中の「五重塔」
第4章 潜在意識の奥にあるもの
第5章 無意識との対話を実現するには
第6章 無意識を浄化する
第7章 「祈りの力」を考える
第8章 日本人が誇りとする「結び」の思想
日本を代表する比較宗教学者・町田宗鳳氏が、異界という日本人特有の精神風土や自然と交流することで得る癒し、及び、心を育む効用について、宗教学、比較文明論、生命倫理学をもとに解き明かす。 パワースポットの最深部には、異界への扉があり、自然の奥深くには日常とかけ離れた異界がある。 縄文以来、日本列島の住人は自然の霊力を崇め、自然に育まれて生きてきた。異界の扉から、非日常的な日本人古来の精神世界を探訪し、現代をより良く生きる力を探る。 霊山、巨石、森、滝、洞窟、古墳、全国の異界への扉をめぐり、霊界と交流、世界でも類を見ない日本人のユニークな宗教観の本質を追究。
日本人の「いのち」の源は山にある。 縄文以来、この列島の住人は山の霊力を崇め、山に育まれて生きてきた。大和の神奈備山から山岳信仰の霊場まで、全国の名山・霊山をめぐり、 日本を代表する宗教学者が日本人の信仰の本質を探る。なぜ私たちは山へ登りたいと思うのだろう。 山を眺めると懐かしさを感じるのはなぜだろう。 世界でも類を見ない日本人のユニークな宗教観の本質。 現代をより良く生きるための指南書。
いま瞑想が静かなブームを呼ぶ。長年、禅の研鑽を積んできた著者が、自らの経験と学的蓄積をふまえて、満を持して放つ「至福の瞑想法」とは。「ありがとう禅」の実際と思想を語り、仏教瞑想の極地を示す注目の書。人生と世界が幸せになるために、できること。
初めての自費出版本。誰にでも分かる平易な言葉で宗教の本質を語る。ソーホー和尚の「型破り仏教論」と「ナンデモ相談室」の二部構成。税込400円。書店での購入不可。「風の集い」のみで販売。5部以上のご購入で郵送も可。送料別。ご注文は「ありがとう寺」事務局(酒井)まで。
メール:info@arigatozen.com
電話・Fax:0550-87-5310
振込口座:三井住友銀行京都支店 (株)結 普通:8895449
人の心の奥底に眠る「無意識の力」。その力に身を委ねれば、生きることはもっと気楽で創造的になる?比較宗教学者の“心"を巡る知的探検。
神社の大樹を仰ぐと気持ちが晴れ晴れする、もうダメだと思った瞬間、助けが現れる、見えない何かが人生を後押ししている、そう感じることは誰にでもあるでしょう。 そんな「見えない力」は太古から私たちと共に在りました。「死者の力」もその一つ。 比較宗教学者である著者が、世界中の歴史や文化を辿りながら、魂の真実を詳らかにし、死が生の終わりでないことを教えます。 修羅場の人生を穏やかな幸福に変える方法を探しませんか。
<<続きを見る>>「死」を理解して、その力を味方にすると、あなたの生き方と死に方が変わります。
心からの感謝を伝える………「ありがとう」は世界最短のお経
食べることは魂の交流………孤食は避けて、楽しい食事の時間を
死とは何かを知る……………供養はコミュニケーション
生と死は数珠つなぎ…………人生はやり直しがきく
見えない力を信じて、敬う…お墓を侮らない、樹木に生きる力を得る
異端の宗教学者による、読む〈祈り〉の本
「ありがとう」は幸せを呼ぶ最高の薬! 唱えるだけで人生が劇的に変わる!
「人間関係や仕事が好転」「夢が実現」「うつ病が快復」など、これまでに1万人以上がその効果を実感してきた「ありがとう禅」。宗教的体験と科学的分析により生まれた、シンプルで簡単なのにすべてを変える瞑想法!
本書は、一休が最晩年の10年間を同棲した盲目の女琵琶師・森女との物語が中心です。足利義政の時代の虚構に満ちた仏教界を嫌悪し、常識に囚われない「禅の神髄」を示そうと肉と魚を喰らい、酒をあおり、遊郭に出入りした一休が、77歳で森女と出会うことで、なぜ変わったのか。80歳で大徳寺の住職となり、応仁の乱で焼けた伽藍を復興。森女との交情のうちに一休が見出した「人の道」「無我無欲の境地」を描きます。
第一章 傷ついた魂
第二章 禅門の学び
第三章 仏界入り易し
第四章 聖胎長養の日々
第五章 逆行三昧
第六章 盲女琵琶
第七章 魔界入り難し
ケンブリッジ大学出版局から「宗教と戦争の関係」を論じた文献学的書物が出ました。オスロ国際平和研究所のメンバーが中心となって、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、儒教、仏教などの各専門家が、宗教がどのようにして戦争を正当化してきたかを歴史的資料に基づいて共同執筆したものです。私は唯一の日本人執筆者として、第10章「日本の宗教的伝統」を担当しています。750ページにわたる大部の本ですが、アマゾンで購入できます。
東日本大震災を懸命に生き延びた人々の実体験にもとづく命のドラマ。男女の恋愛を軸に、生きることの意味、人と人のつながりの尊さ、生者と死者をつなぐ魂の再生をうたう。
「プチ断食」であなたのカラダと運命は好転する!
「断食セミナー」を主宰する宗教学者が、その体験から得た、体と心への効用の数々
第一章 運命好転の秘訣は少食にあった
第二章 なぜ坊さんは長生きするのか
第三章 現代人のための「ありがとう断食セミナー」
第四章 「食べる道楽、食べない道楽」
第五章 肉体は神のやしろ
町田宗鳳先生の音声による「般若心経」と「四弘誓願」が収録されています。
町田先生の声を聴きながら、先生の声に和して唱えることができます。読み上げている途中からでも、前戻り・先送りができるので、般若心経を完璧にマスターすることにも役立ちます。
「事なかれ主義の世の中、異端こそが日本を変える。この仏教者たちを見よ。」――松岡正剛氏推薦! 先行きの見えない経済不況、東日本大震災を経て、日本はいま閉塞感に包まれています。なぜ、リスクを取り、過去を捨てて変われないのか。その最大の壁は「常識」です。いま必要とされ・・・<<続きを見る>>ているものは、頑迷な常識と、敢然と戦う「常識破り」の人間です。それを本書では「異端」と呼んでいます。古今東西の歴史を紐解けば、この異端力こそが歴史のページをめくってきました。キリスト、ガリレオ、龍馬、ジョブズ……みんな異端でした。なかでも日本仏教の歴史はその最たるものです。私たちのなかに眠る異端力を再活性化することが、この国を再興に導くための鍵となるはずです。本書ではそのヒントを示します。
「ナムアミダブツと念仏を声にだして称えれば誰でも救われる」――日本の仏教を庶民の宗教へと変えた革命者、法然の愛にあふれたあたたかい人柄と、苦悩に満ちた生涯。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、必ず極楽浄土へゆける――平安末期の乱世、法然が説く常識外れの「念仏」の教えが人々の心をとらえたのはなぜか? 激しい弾圧にも屈せず、鎌倉新仏教の嚆矢となった浄土宗の祖の生涯と思想を、国宝《法然上人絵伝》他のヴィジュアルで読み解く。
紀伊半島の南部に位置する熊野地方は、遥か昔から日本人の魂の原郷として深い信仰の対象でした。比較宗教学を専門とする町田宗鳳氏が、“死”と“再生”をキーワードに熊野三山信仰の本質に鋭く迫ります。
日本はいま、経済的に綱渡り状態にあります。なのに、選挙のたびに「国民のために」と絶叫する政治家たちは、被災地から遠く離れた東京で「作業服を着る」ジェスチャーは見せたものの、相変わらず緋毛氈が敷かれた国会議事堂の中で、「お前が悪い」と罵声を浴びせあっています。・・・<<続きを見る>>(略)フクシマを「折り返し点」として、日本だけでなく人類文明そのものが大きく方向転換をする可能性すらあります。(略)そういう文明の「折り返し点」に真っ先に立たされた日本には、大きな使命があります。大げさに聞こえるかもしれませんが、それが比較文明学者でもある私の確信なのです。
――<「はじめに」より>
「ありがとう」にはすごいチカラがあります。町田先生と森先生のお二人が指導する「ありがとう」の呼吸、念仏、体操、少食、断食があなたを変えます。ふだんから、やさしい眼差しで人を見る、にこやかな顔で人に接する、愛のある言葉をかける、人に心を配る、いつでもどこでも「ありがとう」。あなたも周囲も幸せになれるはず。「ありがとう」の言霊が心身を健康にしてくれるでしょう。
「南無阿弥陀仏」と声に出して称えれば誰でも極楽住生できる…。人々の心をたちどころに掴んだ念仏の教えは、平安末期、末法の世を生きる庶民の「救い」となった。「地獄の思想」が世のなかを次々と覆い尽くし、そして戦乱や天災、飢饉による死が目の前にあった時代、法然が深い思索を・・・<<続きを見る>>重ねた果てに到達した浄土とは何だったか。「死とは何か、生とは何か」を探究する死生学の視点をふまえ、法然浄土教が指し示した「救いの大地」をあらためて捉え直すとき、「昨日に縛られず今日を新たに生き直す」絶対肯定の思想が見えてくる。
800年大遠忌を迎える「末法の革命家」法然の生涯。 NHK教育テレビ「こころの時代~法然を語る」の講師を務めた気鋭の宗教学者、初の書き下ろし小説。
今まで私は、12世紀という乱世に生きた宗教家・法然の思想を客観分析し、それを思想史上に位置づけることに、比較宗教学者としての使命を感じてきた。しかしいつからか、法然という1人の男の中に飛び込んで・・・<<続きを見る>>、彼の眼から世界を見渡してみたいという衝動に駆られるようになった。そういう思いで書き下ろしたのが、小説『法然の涙』である。なぜ涙なのか。それは、過酷な人生が人間の眼から絞り出す血の涙と、その過酷さを生き抜いた先に見えてくる仏の光が人間の眼に溢れさせる歓喜の涙の双方を描きたかったからである。
――町田宗鳳
鎌倉仏教の対極をなす法然と明恵。真逆の思想を持った二人の生きざまと人間的魅力に、比較宗教学を専門とする町田宗鳳氏が迫ります。
「人間は何のために生まれてきたのか」。若者、順風満帆な人生のさ中に挫折を味わう人、掛け替えのない身内を亡くした人、サラリーマン生活に別れを告げた途端に、なすべき対象を失う人など、年齢、性別、社会的地位の有無にかかわりなく、いつか人はこんな<疑問>に向き合う。1200年前に・・・<<続きを見る>>禅宗を究極にまで推し進めた臨済義玄の気迫に溢れる言葉を記した「臨済録」。著者による自由訳な語り口で現代に蘇った臨済禅師の言葉が、酸欠状態にある人々に命を吹き込む。「生き辛い時代」だからこそ、胸に響く言葉の数々。「生かされて、今ここにいる」「フツーがいちばん」「限りがあるからこそ、ありがたい」 「ナリユキに身を任せればいいんだ」「世界がまるごとジブンだ」「ホトケを殺せ」「マジメ人間になるな」「無邪気でいるということ」「失敗は、最高の人生 勉強」「ホトケとはトイレの穴だ」など「私」を活かす36の言葉。
日本の未来は、教育にあり。
教育の未来は、「今」にある。
比較宗教学・比較文化論・生命倫理学の視点から語る「実験的教育論」。
「いのち」洗われ、「こころ」ときめく、不思議な不思議な書! 世の中には、つらいこと・悲しいことが山とあります。 いったいどうすればいいのでしょうか。 すばらしい尼僧の大原「観音さま」が、あの世とこの世のことなど、「人生」の問いにお応えします。
トルストイの名作民話は人類共有の福音書! 鏡に映る自分の姿がはっきりと見えてくる エゴを捨て「愚」を求めれば「智」が見えてくる。トルストイが問うほんものの生き方! エゴがあらゆる不幸の原因とわかっていても、そのエゴを捨てることができないのが、わたしたち人間です。・・・<<続きを見る>>(中略)愚かなわたしたちにも、一歩だけ神に近づける方法が、ひとつあります。それが何かといえば、自分の愚かさに気づくことです。それに気づいているのと、気づいていないのとでは、大きなちがいがあります。なぜなら、人間が他者に見せるあらゆる傲慢は、強烈なエゴを持ちながら、それを自覚できないままでいる自分に対する無知に原因しているからです。自分に対して無知な人間こそが、善人のふりをしながら、他者に対して、もっとも冷酷なことをやってのけるのです。『イワンの馬鹿』とそれに連なるトルストイの作品は、どこまでもエゴイスティックなわたしたち自身の姿を、ありありと映し出してくれる心の鏡だと言えます。
◆「人間改造」のどこが問題か?◆
クローン羊、人工授精、臓器移植、ヒトゲノムの解読など、生命科学や医療技術の進展にはめざましいものがあります。このままいけば、遺伝子操作によって「永遠の生命」を手に入れるのも夢でないかもしれません。しかし、そこに落とし穴、危険性はないでしょうか。・・・<<続きを見る>>ヒト・クローンにおいてアイデンティティはどうなるのでしょうか。人間の生活・生命の根拠そのものが危機に瀕しては元も子もないはずですが。著者たちは、「人間改造」や「生命操作」やエンハンスメント(増進的介入)はどこまで許容できるのか。許容できないとすればどこに問題があるのか、歯止めをかける根拠は? など、これらの問題の現状を丹念に調査したうえで問題点を拾い上げ、ひろく議論を提供しようとします。執筆者は鎌田東二、上田紀行、粟屋剛、加藤眞三、八木久美子ら諸氏。
いま、<祈り>が求められている…
現在もテロや戦争で多くの人命が奪われている。子や妻、母といった愛する人を喪う哀しみの涙が、世界の至るところで流されている。メシアは汝の隣人を愛せよといったのに、なぜ暴力はなくならないのか、この世に神はいないのだろうか…
エルサレム、アメリカなど世界をへめぐり・・・<<続きを見る>>、「宗教」が験される現場から思索し、人類普遍の問いに、比較宗教学の長年の研究成果から挑む。キリスト教、イスラム教といった一神教はいうまでもなく、アジア的な多神教からさえも袂を分からち、 “無神教”という新たな宗教の到来を説く衝撃の書。
カバー写真:広河 隆一撮影 私が難民キャンプを訪れた前日に3歳の女の子をなくしたアフガニスタンの母親
(2001年12月バグヒシャカルト難民キャンプ)
現代人の身近な生活のリアリティに関わるとともに、先史時代から 現代に至る日本の「思想の身体」を問うのにふさわしい9つの語の うち、人間性の根底に眠る「狂」を主題とし、その創造のエネルギー と破壊の力を考察する。
仏教とは、人が亡くなるたびにお布施を集め、墓地や駐車場を経営する宗教のことではない。世間の常識に縛られる凡夫を解放し、生きる喜びを与えてくれる宗教なのだ。今こそ、仏教の原点に立ち戻るべきでは──。本書では、元禅僧にして比較宗教学者と、“癒し”の文化人類学者が、日本仏教の再生について熱く討 論。「<悟り>と<狂い>は紙一重」(町田)、「仏教は人生を・・・<<続きを見る>>リセットする教え」(上田)、「陰徳を積むという価値観を見直そう」(町田)、「“痴”と“智”の絡まりあいに救いがある」(上田)など、宗教の本質を見抜いた独自の見解をぶつけ合う。さらに、オウム事件から十年が過ぎ、日本社会と仏教のあり方を考える。それは単なる教義としてではなく、実践する仏教のあり方である。そのために、お寺を中心としたボランティアの取り組みや、家庭に仏壇を取り戻す方法なども提案。果たして日本仏教に未来はあるのか。現代人の魂に火をつける刺激的対論である。
森羅万象すべての物に宿る「グレート・スピリット」。
人間本来の生き方を取り戻すために―。
インディアン、アボリジニ、アイヌ…先住民の知恵を未来へとつなぐ。
第1章 大地への畏敬(土地を所有するということ;アメリカ先住民と「白人」、その認識のへだたり ほか)
第2章 自然とのつながり(人間は自然の一部;日本の自然崇拝 ほか)
第3章 他者のために生きる(ギブ・アンド・テイクよりも、ギブ・アンド・ギブ;ギブ・アウェイ ほか)
第4章 万物と調和して生きる(いびつな円環;絶滅危惧種を救おうとする理由 ほか)
第5章 よりよく生きるために(誰が教育をするのか;大人が生きる手本を示す ほか)
CD1枚 78分
今、世界で生じている紛争の多くは宗教と深く関わっている。宗教に根ざした対立はどこからくるのか-。町田さんは、自身の人生経験を踏まえ、比較宗教学、比較文化の立場から、一神教と多神教の成り立ちや実像に触れ、・・・<<続きを見る>>そして世界のさまざまな宗教の共通性にも言及していく。また、教義や教団から離れた大らかで個人的な「宗教」の可能性についても語る。
平成16年12月23~24日放送
きき手:上野重喜(「こころの時代」制作班)
宗教とは何か? なぜ宗教をめぐって対立が起きるのか? 古今東西の信仰の諸相を概観。成立の歴史、教え、聖典、儀礼と祭祀、宗派の特色などをテーマごとに整理するとともに、聖人伝説や心に響く聖句なども収録する。
仏教といえば、「葬式」「法事」「お墓」など、死者のイメージがつきまとう。あるいは意味不明のお経、丸もうけする坊主…およそ普通の日常とは縁がなさそ うだ。しかし、仏教は本来、宇宙に遍満するあらゆる〈いのち〉を慈しむ。私たちを生き難くするあらゆる束縛から解き放ち、のびのびと今を楽しむ自由な自分を取り戻す道であるのだ。本書は、二十年の長きにわたり仏道修行を積んだ後、海外で比較宗教学を修めた破天荒な宗教学者が、閉塞した日本仏教への大胆な提 言を交え、その思想としてのおおらかさを再発見する試み。
イスラム原理主義に拘る人たちがいま世界にさまざまな困難をもたらしているとつい思ってしまう。しかし、それに対抗する「アメリカ教」という隠された宗教が問題であるという指摘は納得できる。そのイスラムはアメリカの影であり、逆にアメリカはイスラムの影であると・・・<<続きを見る>>いうのが、著者のユニークな主張である。
いま世界で生じている困難きわまりない紛争のほとんどが宗教に深くからんでいることを具体的に細やかに記していて、解決はいやはや難しいことだと実感する。
その宗教に対して、宗教学者である著者は驚くほどに厳しいことを言う。正義の仮面を被った人間のエゴの面があるというのだ。いわゆる無宗教が多い日本人だが、ここで宗教について深く考えてみたい。
(毎日新聞『本と出会う』2004年3月21日朝刊より)
山が日本の文化、日本人の精神の形成に深くかかわっているという論は、これまであまりなかったように思う。日本では山があまりに身近であるからなのか。あるいは、山を拝むという日本独自の風習がいまでは過ぎ去ってしまったからなのか。
僧として修行を積み、米国で宗教論を学んで帰国して大学で教鞭(きょうべん)を執る町田さんは、日本文化を内側から形づくったのは、・・・<<続きを見る>>日本全土いたるところにあるそれぞれに個性が豊かな山々であるという。
日本人は、世界思想史に影響を及ぼすような哲学思想を生みだしていないが、モノ作りにおいて大いに強みを発揮して、技術、産業において目覚ましい貢献をしている。それは、山という具象世界に神の存在を信じ、現実世界から離れた超越的な神を信じることが苦手であったからだと説く。日本人を具象の民に育てあげたのが、山という具体的な神の姿だとするのである。
その昔、山は動物であったというユニークな見方をまず述べる。熊、鹿、イノシシ、ウサギなどを産み落とし、クリやシイなどの木の実をこぼして、山は食糧庫であった。また山は季節によって緑から赤や黄色にさらに白へと色を変える。音では、春風をそよがせ、木枯らしでため息をつき、吹雪で咆哮(ほうこう)する。古代人は山を生き物のような存在であると感じとっていた。
その山との日本人のかかわりは、時代とともに変わっていく。神話の時代には「オロチの棲(す)む山」であった。ヤマタノオロチを始め、各地にオロチの伝説があるが、神話の世界では山において、カミの姿とオロチの姿が渾然(こんぜん)一体となっている。それは限りなき産みの力をもつ山を母としてとらえて信仰してきたことを示している。
西洋の創造神話では、強大な父のイメージを持った神が、産みの力ではなく意思の力を発揮しており、東西の神観念に大きなへだたりがあると町田さんはいう。
このオロチは、龍に駆逐されて龍神が登場して、「神の座す山」が各地に現われる。その神は八百万(やおよろず)であり、山民、海民、農民がそれぞれに信じる神を持ったが、海の神も山に登って、山は神々の交差点であった。海民にとって山は、広葉樹林で培養された栄養素を運んでくれる産みの母であり、また航海の際の航路を定める目印であった。
さらに時は降って、「験を修める山」になる。熊野、出羽三山、吉野の大峰山など異様な風体をした山林修行者が蝟集(いしゅう)して、験力(げんりき)獲得にしのぎを削った。その験力は、収穫の予言をし、虫除け、雨乞い、子授けと安産、延命と病気回復などの祈祷をして米や金銭などの施しを受ける現世的な業である。
そして、皇族から庶民まで詣る「魂が蘇(よみがえ)る山」が生まれる。熊野詣には人々が数珠つなぎになって押しかけた。その引きつけた力は、熊野の地に燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽のエネルギーではないかという。太陽の光によるミソギで、魂、いのちを蘇らせた。死者の魂を蘇らせるのが、恐山であり、この最果ての地に無数の庶民が押しかけた。
この本には、山にかかわる神話、伝説がきわめて豊富に取り上げられていて、その多くは、代表的にはナマハゲなどいまも祭などとして伝えられている。
いま山は、ダム、リゾートや道路建設で破壊されており、また森林に市場価値がないとして放置され、荒れ果てている。産みの母としての山は、ほとんど忘れられている。古来、日本人の「いのち」の源は山にあったのだと、いまこそ思い起こさねばならない。
(毎日新聞2003年2月16日東京朝刊から) 書評者:森谷正規
第一章 禅寺での二十年
第二章 ハーバード乞食生活
第三章 フィラデルフィアの街で
第四章 プリンストンの森から
第五章 文明のアメリカ的段階
天災と内乱の闇の時代、死は万人におとずれる癒しである事を説いて日本の宗教革命をなしとげた法然の思想の全貌に初めて光を当てる。「癒しとしての死」の発見のプロセスをスリリングに読み解く。
日本人が日本の文化を知らないのは昨今有名なことだが、とりわけ仏教史は等閑視されている。仏教者こそがもっとも波乱万丈の激動をくぐってきたのに、である。中でも中国風の南都六宗や密教を経て、日本仏教の下敷きを作ったとも言うべき法然の時代の事情を知るものは少ない。
その法然を、・・・<<続きを見る>>「死」を座標軸にして日本的原理を求めたリアリストと捕らえ、約半世紀ののちに法然を徹底批判にした明恵を「生」を座標軸にインド的原理を謳歌した理想主義と捕らえて対比させた本書は、たいそう独創的であり、かつこれまで日本人が欠いてきた視点をわんさと提供してくれる。
法然は人間をいつも酒に酔っているようなものだと見た。底には仏教理論に基づいた人間像はなく、仏教の外にいて救われたいと思っている数々の俗人が渦巻いている。だからこそ法然は「他力」を発見できた。親鸞の悪人正機説は既に法然によってほぼ全面的に先取りされていた。
逆に明恵が直結していたのは一般の人間像ではなく、ブッダその人である。しかし、その道は理想主義であるからこそ自分に対しても厳しいものでなければならず、そのせいか、たとえば明恵はゴッホのごとく自分の耳を切ってさえいる。それは「自力」の発見でもあった。このことを裏から見ると、法然が性悪説で明恵が性善説だということにもなる。また、思索のスケールから見ると法然が行く先としての浄土を思い描いたのに対し、明恵は、華厳思想から学んだ宇宙を自分を包むものとして夢想していたことにもなる。せでに法然研究では随一の成果を発表している作者は、このような、法然対明恵の構造を前にどちらかに軍配を上げているわけではない。
著者は、2人の仏教者から「意思」のあり方を学ぶべきではないかと問うている。意思亡き平成の世に、本書が警告の一書ともなりうるのはそこである。
書評者: 臨床心理学者 河合 隼雄
日本の霊性が特別に高まったといわれる鎌倉時代に、対立的な姿勢を極めて鮮明に示す2人の僧があった。法然と明恵である。法然は鎌倉時代の新仏教の創始者の一人として、絶対他力の専修念仏を主張したのに対し、明恵は、あくまで自力による修行を重要とし、法然を激しく論難した。
本書において、著者はこの両者をあくまで彼岸に生きようとする法然を「死の座標軸」、あくまで現世における生き方を大切にしようとする明恵を「生の座標軸」と捕らえ、両者の差を詳しく比較検討する。そして、両者を理想主義(明恵)、現実主義(法然)の対立としてみることもできるという。
このように対立する両者も生活史を比較すると、あんがい共通の部分も多い。両者ともに下級武士の家に生まれ、両親の愛に恵まれて育つが、少年時代に親と死に別れている。そして法然も明恵も己の仕事に生命を投げ打つ武士の気概を持つ点も共通である。
両者に何よりも共通していたことは、当時の僧侶たちが自分の位階が上がることや、加持祈とうなどによって利益をあげることに心奪われ、本来の宗教性を失っていたのに対する激しい怒りと改革への意思である。
ただ、改革の方向としては、法然がルターにも比しているような改革であるのに対して明恵はむしろ、釈迦への回帰であった。
しかし両者をよく比較するとその座標軸は以外に重なり合うのだ。一見対立的に見える両者が、その深い宗教体験のほうに目を向けると交差し、重なり合うことを明らかにする点に本書の特徴がある。
かくして、両者に共通に見られる「意志する宗教」の姿が、最も重要なこととして浮上してくる。ここで著者はそれが現代に生きるものにとって痛切な問題であることを提起してくれる。宗教が古い時代の比較問題でなく現代のこととして語られるところに本書の意義があると感じられる。
書評者: 編集工学研究所 所長 松岡正剛
「本家のインド仏教や大先輩の中国仏教とはおよそ似て非なるものになってしまった・・・僧職にある者の肉食妻帯を許したり、どんなに深い罪でも一回の念仏を唱えれば極楽浄土間違いなしと説いたりすることは、まず、他の仏教国、特に釈迦の教えを忠実に守ろうとする上座部仏教を信奉する国々の仏教徒にしてみればほとんど外道の教えに近い(P151)」。
日本に受容された仏教は・・・<<続きを見る>>他の仏教に比国には類を見ない変容をした。このような独特の文化変容を見せる日本の精神的風土の根源を探るべく、著者は日本の先住民族アイヌにアプローチした。明治に入るまで、「異族」と認識されていたアイヌは採集狩猟を柱とする自然物に生活を依存する経済社会に生きてきたのであり、その精神世界を知ることは仏教伝来以前の、あるいは弥生時代の米栽培文化伝来以前における古代日本人の精神構造を知る手がかりになると予想した。そして、アイヌの精神世界に触れた実に多くの著作を読みこなし、99年夏には、2ヶ月間を北海道でアイヌの人々と語り合うという作業を通してこの本をまとめている。
著者は、自ら仏教者として20数年を過ごし、さらにアメリカの神学校でキリスト教を学び、また法然研究によって学位を取得するという、本人の言によれば、「節度の無い宗教遍歴」を送ってきた。その経歴が示すように、本書の中には宗教学、哲学、神話学、言語学など多彩な分野における著作から引用がなされ、それを読むだけでおもしろく、本書のスケールの大きさを実感する。
アイヌは人間(アイヌ)の存在にかかわる自然事象を神(カムイ)とし、人間と神との対等な共存を図ってきた。わけても陸の神の頂点に立つクマに対する儀礼は重要で、「クマ祭り」として一般的に知られてきた。このイオマンテとよばれる儀礼は、その内容から「飼い熊送り儀礼」とするのが適切である。春先に冬ごもりの穴から連れ帰った仔熊を、1~2年飼育した後に盛大な儀礼とともに殺害し、その霊を神の国に送り返すというものである。アイヌの精神文化が集約されているといってもよいこの儀礼を、著者は民俗学、文化人類学をふまえた独自の、宗教学者の目によって解釈し、儀礼の各プロセスが細かく分析されている。すなわちマルセル・モースの「贈与論」を下敷きにして、イオマンテも人間(アイヌ)が生きていくために必要なカムイとの交換であると結論づけている。そしてまたアイヌの交易も、それが単なる経済行為でなく、当事者のマナ(霊的な力)が込められた品物の交換であったとする。こうした解釈は当事者のアイヌが、現在では当然認識できないであろうし、過去においても明確には認識していなかったであろうと思われるものではあるが、読者になるほどと思わせるには十分である。
第3章では、ギリシャ語のゾーエー(Zoё)と、ビオス(Bios)という言葉について紹介する。ハンガリーの神話学者カール・ケレーニィによれば、ゾーエーは「ビオスの1つ1つが真珠のように通して並べられる糸であり、この糸はビオスとちがって、ひたすら無限に連続するもの(P114~115)」すなわち、「ビオスである個々の魂の生滅にかかわらず、ゾーエーはタナトス(死)の存在を認めず、永遠に存在しつづける。(P115)」のである。そして言う、「神道の神々もそうであるが、アイヌのカムイも教義を語らない。ユダヤ教や、キリスト教の神のように、人間に生き方としての倫理を説くこともない。」 その特徴のなさは、まさにゾーエーそのものである。その証拠に日本列島には、神話や神謡はあっても、そこで生まれた宗教的教典というものがないのである。神もカムイも、生命の『ひびき』であって…したがって、創造主と被創造主…のようなヒエラルキーが、神と人間の間に介することもなかった。破壊されるビオスは、破壊されないゾーエーの『ひびき』に共鳴することを願っただけである。(P115)
アイヌの精神世界は、人間(アイヌ)の生活に必要な自然物や人工物すべてに霊的な存在を信じ、それらと人間が友好的な関係を維持し続けることにもっぱら関心が持たれ、生活のあらゆる場面でカムイノミ(神への祈り)を欠かさなかった。しかしカムイは、決して人間より上位にあるのではなく、アイヌは人間に悪さをする、カムイを恫喝し懲らしめることさえした。このカムイとアイヌの関係が著者によって、「ゾーエーとビオスの関係」という言葉によって明確に説明される。「アイヌがカムイをいたずらに偶像視しないのは、カムイの実態が破壊されない生命そのものに他ならないことを直感しているからである。」として、この直感を、<ゾーエー的生命感覚>と呼ぶ。
さらに著者は、アイヌの伝統的生活文化のさまざまな場面を切り取って独自の見解を述べ、採集狩猟民族であったであろう縄文時代の精神社会をも推測する。考古学学徒であった評者も、縄文の社会を理解するためには、「伝統的な」アイヌ社会を知ることがもっとも近道であると考え、アイヌ民族学研究に踏み込んできた。評者の目指した方向はもっぱら、厳然と存在する物質文化をとおして、その作り手や、使い手の心や社会を理解するという方法である。それゆえ、本書の著者の方法論には、アイヌ文化を読み解くひとつの思考として非常に興味を覚えるものであった。しかし日本列島に約1万年より2300年前までに存在した縄文文化とおよそ700年前に成立したアイヌ文化をそれぞれひとくくりにして考えることや直接結びつけることなどについても、評者は、著者と意見を異にする点が少ない。「アイヌ文化」を成立させ、その社会と文化を担ってきたアイヌは、北海道を中心としたアイヌモシリ「人間の大地」において、時間の経過とともに変化してきたものであり、少なくとも数百年の間変わらぬ精神文化を維持してきたものではないのである。
結論的には、現在知られているアイヌの精神文化を独自の視点によって分析し、アイヌの生命哲学というものを中心に唱えて、著者は現在の日本人がもはや問い掛けることを忘却したといってよい生きることの自覚、全存在的な生き方をもう一度想いだしてほしいと、読者に呼びかけている。日本の先住民アイヌとその文化の存在に一般の人々の興味を向けさせ、アイヌが今模索している文化の再生と継承への試みに対する共感を生む著作であろう。(了)書評者:国立民俗学博物館教授・アイヌ民俗学 大塚 和義
本書は、「熊野信仰には、日本人の精神文化にかかわる何か一貫したものが伏流として流れている」という立場から、「追放と復活」をキーワードに、熊野信仰をさまざまな角度から読み解いていくちょっと面白い宗教論である。
熊野信仰の根底には・・・<<続きを見る>>日本文化のもっとも古い基層の部分に結びついた不思議が沢山ある。熊野本宮はなぜ荒ぶる神スサノオを主神とするのか。建国の祖といわれる神武は、東征伝における上陸の地をなぜ熊野にしたのか。熊野三山はなぜ違う神を祭り、しかも三神一体となった信仰を受けているのか。古代ここで、山地民族、平地民族、それに海洋民族が出会い、戦いのあげく融和して三山信仰ができあがったのではないか。こういう仮説を、海幸山幸小伝説、浦島太郎伝説、常世とマレビト信仰などを手がかりに展開していく部分はなかなか面白い。
一方、「熊野の自然は、神の篭もる『神奈備の御室』という性格と、死者が集う『隠国』という相矛盾する2つの性格を同時に持ってきた。」それは、熊野が死者の霊が生の世界に再生するために通る「魂の祈りの返し点」とみなされていたからだという。いかにして、死から生への復活が可能になるのか。それは、熊野の自然が包摂する母性としてのエロスによるものだという。
書評者:武蔵野大学教授 鎌田 東二
日本が指針を見失い自信喪失に陥って誇りもアイデンティティーも喪失しているかに見える今、この深い荒廃の中から新たな生命の脈動を告げる声があがり始めている。本書もそうした七転び八起きのたくましくもめげない精神に裏打ちされて、空洞化し無力感にさいなまれている現代日本の精神状況に一喝を入れる書物である。
1950年生まれの著者は、自らの意思で14歳の時に出家し禅僧になるが、師匠の死に伴い、34歳で寺を出て(再出家)アメリカに渡り、苦学の末、法然の研究で博士号を取得。その後、ブリンストン大学東洋学部助教授として日本文化史を教える。
著者はまず、「現代が追放の時代」であると主張する。家から、形から、自然からの三重の追放を受け、精神的文化的安住を見い出せないでいるという。著者もまたそうした追放を体験してきたが、それなればこそ追放者の果てに復活がありうるという。その追放から復活への折り返し点として著者は「エロスの国・熊野」を位置付ける。
第一章「追放と復活」では、根の国に渡ったスサノオの神話と熊野を訪れて病の癒えた小栗判官の物語を解析し、「自己の身体として、自分の魂の発現の場として」の熊野の自然を見出し、熊野が何ゆえに「民族の療郷」(第2章)であり、「エロスの国」(第5章)であるかを読み解いていく。
そこには何よりも「草木皆物言う」自然があり、海と山と人の交流の中で万物に霊の宿りを感得するアニミズム的な自然崇拝が息づいている。熊野は生命に満ち溢れた場所であると同時に死の国「隠国(こもりく)」でもある。死と生の両極を内包するが故に、そこは根源的ないのちの生成場として、「エロスの国」といえるのだ。中世に熊野が子宮を意味する「胎蔵」世界と位置付けられたことも故あることである。エロスと新たなるロゴスの量的核融合による宗教再生を希望する書世の書である。
書評者:立花 隆
宗教をめぐる視点は今まさに混乱の極致である。暴力性が見られる新興宗教は、厳しく指弾されてしかるべきだが、一方でそうした闇の部分を「邪教」と決め付けるような概成の宗教は、文字通り毒にも薬にもならず、われわれの深部には届いてこない。その中で宗教はいかなる可能性が残されているのか。
本書は、宗教の本質とは苦悩にあり、・・・<<続きを見る>>「狂い」という日常を逸脱した体験こそが宗教体験の根底に存在することを、古今東西の例示とともに説得的に示すことで行き詰まった宗教を、そして現代の閉塞状況を切り開こうという極めて意欲的な取り組みである。
著者はまず宗教体験に着目し、そこで「悟り」と「狂い」は紙一重であることを書き出す。日常性にがんじがらめになった現代原則からは悟りは得られず、日常性の解脱からこそ宗教体験は生まれえるが、それ故、「解脱」と「魔境」は隣接する体験とならざるを得ない。なぜなら宗教体験は日常の理性を超えた、無意識に存在するマグマのような、生命感情にこそ、その根源を持つのであるからだ。
祭りの爆発的活力、踊り念仏の狂乱、シャーマンの恍惚を見よ。それは狂いでもあり、全体的人間の回復でもある。そして狂うのは人間のみでなく、神々もまた狂い、荒ぶるのだ。キリスト教のねたみの神、イスラム教の怒りの神、血なまぐさいヒンズーの神々、愚行を繰り返す日本神話の神々・・・。善と悪のせめぎ合い、暴力と救済の根源的なドラマこそが、世界の深層を照らし出すのだ。
善と悪がに、日常と非日常に、絶望と歓喜に引き裂かれる「狂い」の体験無しには、「救い」もまた存在しない。それどころか、「狂い」が排除された、そこの浅い「明るく」「理性的な」社会こそ、抑圧された「闇」が最も暴力的に噴出する社会ではないか。宗教論にしてその訴えかけは現代日本の総体に及ぶ。気力充実した、必読の一冊である。
書評者:東京工業大学教授 上田 紀行
Book Reviewer:
Alfred Bloom, author of Shinran's Gospel of Pure Grace
"An original and highly stimulating approach. Honen, the founder of the Pure Land sect, has been greatly underestimated and neglected in modern studies of Japanese Buddhism. ・・・<<続きを見る>>Notable for making connections with Christian liberation theology and for establishing the social significance of the Pure Land movement, this book will make excellent reading in courses on world religion, Japanese religion, and religion in society."
Book Reviewer:
Kenneth K. Tanaka, Musasino Women's University, Tokyo
"Machida has thrust Honen to his deserved place at the center stage of Pure Land Buddhist development. We are drawn closer to Honen as a person and spiritual genius who not only esta- blished Pure Land as an independent tradition but also impacted the over all Japanese Buddhist ethos of his time. the West's perception of Pure Land Buddhism has been forever trans formed by this superb work."
Book Reviewer:
Taitetu Unno
"Soho Machida's original, provocative study of Honen secures his place in Japanese intellectual history; and [Honen's] bold advocacy of Pure Land practice forms a watershed in Japanese Buddhism, dividing the old from new , hierarchical from egalitarian elitist from popular faith."
現代人は人工空間に生きている。科学は快適な環境を生み出し、生老病死も、やがては思いどおりになると思っている。身体感覚が極端に希薄な社会では、凶悪 犯罪や自殺が日常化し、魂の拠りどころも見えにくい。こんな時代だからこそ、「理性」の檻に閉じ込められた「野性」のエネルギーを解放し、根源的な生命力 を取り戻さなければならない。本書では、信長の・・・<<続きを見る>>決断力、龍馬の行動力、円空の造形力、宮沢賢治の想像力、松下幸之助の直観力を手掛かりにして、すべての現代人に、あらかじめ喪われた「野性」の回復を訴える。
世の中、とんでもなく不公平に出来ています。でも、あなたには「幸せになる責任」があります。失敗と挫折の連続でも、今こうして生かされているのはなぜ?比較宗教学者が発見した「幸せの法則」お教えします。
50代。
そろそろ人生の荷物を捨てて生きたいように生きてみませんか?14歳で出家、34歳で渡米して宗教学者に。
体当たりの経験を繰り返して得た著者の「がんばらない生き方」。
50歳すぎたら、しがらみにとらわれないで生きてもいいんです。